Das Alter macht nicht kindisch, wie man spricht,
Es findet uns nur noch als wahre Kinder.
まだ前狂言を読んでいる。これは、詩人に向けた道化役のセリフである。
山下肇訳。
世間でいう、老いては子供にかえるは嘘、
老いてこそ、やっと本当の童心を摑むんですよ。
森鷗外訳。
高橋義孝訳。老いては子供に返るとは、世の人のさかしらで、
真の子供のままでいるのが、老人方の美点です。
世間じゃ、年寄りは子供染みるというが、
子供のままでいるというのが本当の年寄りというものです。
三者三様である。
ここでの肝は、kindischという形容詞である。これは「子ども」を意味するKindという名詞からできた言葉だが、kindlichが「子どもらしい」とか「無邪気な」を表すのに対して、kindischは軽蔑を含んで「子どもじみた」とか「愚かな」という意味になる。
俗に老人が子どもに返ると言うとき、そこには子どもじみた言動が増えるとか、耄碌するといった、否定的なニュアンスが含まれる。だが、それは違うというのである。
二行目を直訳すると、「老年は我々をまさに真の子どもとして見出す」となる。子どもじみるのではない、老人は本当に子どもであるのだ、ということだろうか。
転職は成功した。
なかなか電話が来ないし、求人票には前日までなかった年齢制限が付けられていたので、不合格だろうと思っていた。私を雇うことにしたので、もう一人は若い人を採ろうと考えたのかも知れない。
翌日、現在勤めている会社に行き、退職の意思を告げた。一番頼りにしていたのにとは言われたが、あっさりと了承された。退職届の様式がたくさんストックされていたので、一部貰って来た。私の部署では年齢以外の理由で退職する人はほとんどいないけれど、他の部署は入れ替わりが激しいのだろう。来る者は拒まず、去る者は追わないという会社のようである。
三月から新しい職場で働く。ゲーテを続けることができるか否かが問題である。難しいだろうと予想する。だが、行けるところまでは行ってみようと思う。少しずつではあったにしろ、部分的にではあったにしろ、ゲーテを読むことは決して小さなことではないだろうし、それで大きな鉱脈を掘り当てることもないわけではなかろうと思うのである。