本の覚書

本と語学のはなし

【ドイツ語】演劇界は一人の名優を失った【ボヘミアの醜聞】

 Er ergab sich in sein Schlafzimmer und kehrte nach wenigen Minuten als ein liebenswürdiger, schlict aussehender Methodistenprediger zurück. Sein breiter schwarzer Hut, seine weiten Beinkleider, die weiße Perücke, das milde Lächeln und der eigentümliche, stes damit verbundene Ausdruck im Verein mit wohlwollender Neugier konnten kaum treffender dargestellt werden. Aber Holmes wechselte nicht nur seinen Anzug. Seine Züge, sein Benehmen, ja sein ganzes Wesen schien ebenfalls mit jeder neuen Rolle zu wechseln.

 ドイツ語とラテン語は、状況に応じて、聖書原典講読の際に翻訳を参照するだけにとどめるのもやむなしと考えている。しかし、可能な限りはシャーロック・ホームズウェルギリウスを読み続けていきたい。


 ホームズの古い独訳が必ずしも原文に忠実ではないということは、何度か書いてきた。その具体例をちょっと見てみようと思う。
 独文は、正直言って、一読しただけでははっきりと意味をつかみかねた。日本語訳を見ても、あまりこなれているとは言えない。その原因は恐らく英語の方にあるのだろう。


 He disappeared into his bedroom, and returned in a few minutes in the character of an amiable and simple-minded Non-conformist clergyman. His broad black hat, his baggy trousers, his white tie, his sympathetic smile, and general look of peering and benevolent curiosity, were such as Mr John Hare alone could have equalled. It was not merely that Holmes changed his costume. His expression, his manner, his very soul seemed to vary with every fresh part that he assumed. The stage lost a fine actor, even as science lost an acute reasoner, when he became a specialist in crime.

 寝室に姿を消したかと思うと、数分後に、ホームズはおとなしくて実直そうな非国教会の聖職者姿になって出てきた。つばの広い黒い帽子、だぶだぶのズボン、白いネクタイ、同情溢れる微笑みと、じっと見つめるなさけ深い表情という全体のイメージは、どこから見ても、彼に太刀打ちできるのは名優ジョン・ヘア氏一人だけだろうと思える見事さだった。ホームズの変装術は、単に衣服を変えるだけではなかった。表情から、身振り、さらに心までがき新しい役柄に応じて、変わってしまうように思えた。ホームズが犯罪の専門家になったということは、科学界にとっては一人のすばらしい理論家を、演劇界にとっては一人の名優を失ったということに相当するのだ。

 太字にしたのは、独訳が原文に忠実ではないところ。特に青文字にしたところは、ドイツ語では削除されている。


 非国教会の聖職者姿
 英語ではNon-conformist clergymanであるが、ドイツ語ではMethodistenprediger、すなわちメソジストの牧師である。
 英語の非限定的な書き方が何を意味しているのかといえば、当時英国国教会の牧師に変装することが法律で禁じられていたため、それを避けたのだということである。しかし、ドイツではそんな事情はどうでもよかったのだろう、国教会でなければメソジストにしておけということになったようだ。


 白いネクタイ
 英語ではthe white tieだが、ドイツ語ではdie weiße Perücke。理由は分からないが、白いネクタイが白髪のかつらになってしまった。
 確かに、挿絵を見ると白髪のようであるから、かつらをつけていたのかも知れない。訳者にとっては、こちらの方をこそ描写するべきであると思われたのだろう。


 全体の
 英語のgeneralに対して、ドイツ語のeigentümlich。ドイツ語の方は、「奇妙な」という意味もあるけど、ここでは「固有の」というほどのつもりだろう。
 日本語訳でもこれを「典型的な」としているものがある。温かい眼差しを注いで寄り添おうとする、典型的な牧師の姿をホームズは体現したというのだろう。
 原文の意図するところが、全体の印象なのか、典型的な印象なのか私には分かりかねるが、どちらかといえば私は全体の方に傾く。


 心まで
 英語のhis very soulが、ドイツではja sein ganzes Wesenとなっている。彼の全存在が! という感じだろうか。これはこれでなるほどと思わせる。


 名優ジョン・ヘア氏
 当時のイギリスの俳優で、老人の演技において並ぶものがなかったということである。
 しかし、一般のドイツ人読者には分かりにくい喩えだったのだろう、削除されてしまった。ドイツ語ではkaum treffenderとされている。「これ以上なく見事に」という意味。
 最後の一文を削除したのも、ジョン・ヘア氏抹殺が必然的に招来した事態であろう。演劇界の話などは、ジョン・ヘア氏がいなくてはあまりに唐突にすぎる。