本の覚書

本と語学のはなし

【読書メモ】幸いなるかな、万物の原因を知り【事物の本性】

 筑摩書房の『ウェルギリウスルクレティウス(世界古典文学全集21)』のうち、ルクレティウス『事物の本性について』とその解説を読み終えた。
 翻訳は西洋古典学の藤沢令夫と物理学の岩田義一によるもの。岩田と田中美知太郎が以前訳したものを、藤沢が事情の許す限り検討し、それを元に岩田が稿を改めたものであるという。


 原子論的自然哲学である。
 現在の科学の知識からすれば、もちろんおかしな説明は至る所にある。しかし、世界の全ての現象を原子と空虚から解釈し尽そうとした探究心に圧倒される。
 原子論はルクレティウスの創始になるのではない。彼はエピクロスを紹介するだけだと言っていたし、エピクロスもレウキッポスやデモクリトス以来の伝統を受け継ぎつつ発展させたのである。
 現代的な実験装置などはない時代、彼らをこの高みにまで引き上げたのは、ただ観察と思考実験と論理のみである。


 ときどき話が飛躍するところがある。私の読み方が散漫で不注意なのかと思っていたが、そうではないらしい。

じっさい、ある一つの論点提出とともにルクレティウスの想像はたちまち発動し、それと関連して意識の前景に現れてくるひとつの光景を、彼は情熱をこめて描きはじめる。そしてしばらくは、その心像の絵画をそれ自体として追うことに没頭して、最初のきっかけを与えた論点からはるかにかけ離れたところまで行ってしまう。〔中略〕いずれにせよその彷徨が一応終わると、彼はいま自分が語り終えた事柄には全然おかまいなしに、結果として間に介入することになったその長い記述をとび超えて、はじめに自分がいたところをはるかにふり返りながら、「それゆえに」「かくして」と承けてふたたび話をはじめる、といった場合がしばしばある。この現象を、ルクレティウスにおける「思考の中断・浮遊」と名づけた人もいた。要するにルクレティウスは、論文を書いているのではなく、詩を書いているということであって、われわれはそのような彼の心象風景を、そのあるがままに追えばよいのである。そしてひとたび慣れ親しむならば、これもまた疑いなく、ルクレティウスの与えた「ムゥサの女神の魅惑」のひとつであることが知られるであろう。(解説 p.461)


 ルクレティウスは「詩を書いている」とある。彼はこの自然哲学的テーマを、ヘクサメトロスという英雄叙事詩の韻律で歌い上げたのである。
 これもまたルクレティウスの独創というわけではない。古くはヘシオドスが、まだ非常に神話的であるとはいえ、その宇宙論を六脚韻で歌った。パルメニデスもエンペドクレスもその思想を英雄叙事詩の詩形に託したのである。

ギリシアにあって遠くホメロス以来の伝統を持つ叙事詩(エポス)形式を初めてラテン詩に導入したのは、エンニウス(前239-169年)であった。ルクレティウスは、作中(1巻118)「わがエンニウス」と呼んで功績を讃えているこの先輩から、作詩法に関する多くを学び取りながら、ラテン詩の水準を大きく引き上げるのに寄与したといえる。ただヘクサメトロスそのものとして、次に来るウェルギリウスの完全な洗練とくらべるならば、彼の詩は全体としてまだ粗野であり、ときにぎこちなく、後代の詩人の趣味が斥けた破格を犯しているというのが、衆目のみるところであろう。しかし、ウェルギリウスが彼から学び取ったものも実に多く、具体的な表現の上の模倣も数多くあげられている。ルクレティウスはこの大詩人が現れるための、なくてはならぬ礎石であった。(解説 p.462)

 ウェルギリウスは『農耕詩』の中で、「幸いなるかな、万物の原因を知り、/すべての恐怖と非情な運命と/貪欲なアケロン(冥界)の唸り声を足下にふみしいた人は。」(『農耕詩』2.490-3)と歌っている。一般にこれは、ルクレティウスへの讃辞であるとみなされている。
 ウェルギリウスはかなうことなら万物の根源を究明し、それを詩に歌いたかった。しかし、自分にその力が無いのであれば、川や森を歌うことで満足しようと言ったのである。

続いて

 さて、残る『アエネーイス』を読むかどうかは、今後ラテン語ウェルギリウスの原典講読を続けるかどうかにかかっている。
 時間を割くのが難しいようにも思うが、代わりにウルガタ聖書を読むにしたって、どれほど労力が軽減されるわけでもない。生涯の付き合いとなるかも知れない詩人を手放すのは、惜しい気もする。余裕のあるとき、気力のあるときだけ読むということで、よしとするべきだろうか。
 泉井久之助の翻訳が待っている。学生時代に岩波文庫で読んだことがあるし、以前ラテン語で『アエネーイス』を読解していたときは専ら泉井の翻訳を参照していた。その特徴はよく承知している。
 冒頭を引用しておこう。

わたしは歌う、戦いと、そしてひとりの英雄を。――
神の定める宿命の、ままにトロイアの岸の辺を、
かつて逃れてイタリアの、ラーウィーニウムの海の辺に、
辿りついた英雄を――。

 概ね七五調で訳されているのである。