本の覚書

本と語学のはなし

【ドイツ語】コカインと野心の間を【ボヘミアの醜聞】

Ich hatte mich vor Kurzem verheiratet und daher in letzter Zeit nur wenig von meinem Freund Sherlock Holmes gesehen. Mein eigenes Glück und meine häuslichen Interessen nahmen mich völlig gefangen, wie es wohl jedem Mann ergehen wird, der sich ein eigenes Heim gegründet hat, während Holmes, seiner Zigeunernatur entsprechend, jeder Art von Geselligkeit aus dem Weg ging. Er wohnte noch immer in unserem alten Logis in der Baker Street, begrub sich unter seinen alten Büchern und wechselte zwischen Kokain und Ehrgeiz, zwischen künstlicher Erschlaffung und der aufflammenden Energie seiner scharfsinnigen Natur. (p,8)

 どうもビューヒナーを読み続けることが、私の楽しみとはならない気がする。いっそドイツ文学とかドイツ哲学とかはもう諦めて、シャーロック・ホームズの翻訳に転向したらどうだろうかと考えた。
 英語の原文も日本語の訳も揃っている。あとはドイツ語訳を買えばいいだけだ。探してみたら、相当な値引きをした全集が見つかった。すぐに注文する。発注後、値段は元に戻っていた。


 先ずは『シャーロック・ホームズの冒険』の短編を読む。引用は「ボヘミアの醜聞」の冒頭である。
 理由は知らないが、「シャーロック・ホームズにとっては、彼女は、いつも『あの女』だった」と始まる、最初の段落が欠けている。アイリーン・アドラーへの感情が論じられる有名なところである。
 実を言えば、タイトルにも「ボヘミア」の文字がない。Eine Skandalgeschichte im Fürstentum O. すなわち「O侯国の醜聞」である。
 ドイツにおける受容に特別の事情があるのだろうか。


 あくまでドイツ語の勉強であるから、先ずドイツ語訳を読む。英語の原文や日本語訳を確認するのはその後である。
 細かく見ると原典と少し違うところもあるようだし、やはり原典にはかなわないとも思うけれど、これなら楽しみながらドイツ語を読むことが出来そうだ。


I had seen little of Holmes since the singular chain of events which I have already narrated in a bold fashion under the heading of The Sign of Four. My marriage had, as he foretold, drifted us away from each other. My own complete happiness, and the home-centred interests which rise up around the man who first finds himself master of his own establishment, were sufficient to absorb all my attention; while Holmes, who loathed every form of society with his whole Bohemian soul, remained in our lodgings in Baker Street, buried among his old books, and alternating from week to week between cocaine and ambition, the drowsiness of the drug, and the fierce energy of his own keen nature. (p.5)

 一連の奇妙なできごと――「四つのサイン」という表題をつけ、そこで大胆な語り口を用いて物語った、あの事件以降、わたしはほとんどホームズに会っていなかった。ホームズが予言したように、わたしの結婚が二人を遠ざけていたのである。初めて一家の主人になり、わたしは幸せ一杯で、家庭におこるさまざまのできごとに、すっかり気をとられていた。また、ホームズも、彼のボヘミアン的な性格のためか、あらゆる社交的な交流をいっさい避けて、あいかわらず、あのベイカー街の下宿で、古い本の山に埋もれて、コカインと野心の間を、来る日も来る日も行ったり来たりしていた。つまり薬でぼんやりすることと、彼独自の鋭い性格から生み出されるエネルギーを注いで、仕事をすることを繰り返していたのだ。(p.16)

 オックスフォード版の原文と、それを底本とする河出書房新社小林司東山あかね訳である。
 もちろん「To Sherlock Holmes she is always the woman.」から始まるのだが、ドイツ語訳冒頭に対応する部分を書き抜いた。


 最初の部分は、「ストランド・マガジン」誌に掲載されたときには、「わたしはその頃、ほとんどホームズに会っていなかった。わたしの結婚が二人を遠ざけていたのである」と変更され、単行本でもそちらが採用されている(下に引用するノートン版でも、そうなっている)。
 ドイツ語はこれに似ているが、若干異なってもいる。翻訳者の裁量なのか、ドイツ語訳に対応する本文があるのかどうかは知らない(多分ないだろう)。


 英語が比較的易しいので、ドイツ語もそう難しくはない。二つの言語を同時に学びたくて、しかもシャーロック・ホームズが好きならば、原文、独訳、和訳を並べて読んでいくのも、なかなか楽しいだろう。
 ただし、テキストが異なっていたり、翻訳が原文から離れることはあるかも知れない。それを許容できる程度のドイツ語の力は必要である。

【参考】ノートン版の原文と東京図書ベアリング・グールド版の翻訳

I had seen little of Holmes lately. My marriage had drifted us away from each other. My own complete happiness, and the home-centred interests which rise up around the man who first finds himself master of his own establishment, were sufficient to absorb all my attention; while Holmes, who loathed every form of society with his whole Bohemian soul, remained in our lodgings in Baker Street, buried among his old books, and alternating from week to week between cocaine and ambition, the drowsiness of the drug, and the fierce energy of his own keen nature. (p.6)

 その頃私は、ほとんどホームズに会っていなかった。私の結婚が二人のあいだを遠ざけていたのである。私は自分自身のこの上ない幸福に酔い、初めて一家の主人になった者が家庭を中心とした身のまわりのことに覚える興味などに、すっかり関心を奪われていた。一方ホームズのほうは、その完全にボヘミアン的な気質から、あらゆる種類の社交を嫌い、ベイカー街の下宿にとどまり、古書の中に埋もれて、ある週はコカインに浸り、ある週は功名心に駆られ――つまり麻薬に陶酔する日々と、彼独特の鋭い天性でエネルギッシュに仕事に打ち込む日々を、交互に繰り返していたのである。(p.118-9)