本の覚書

本と語学のはなし

【ラテン語】なぜ君が、アマリュリスよ【牧歌】

    MELIBOEUS
Mirabar, quid maesta deos, Amaryllli, vocares,
cui pendere sua patereris in arbore poma:
Tityrus hinc aberat. ipsae te, Tityre, pinus,
ipsi te fontes, ipsa haec arbusta vocabant.

 迷いはあるし、これからも迷い続けるだろうけど、ラテン語ウェルギリウス、ドイツ語はビューヒナーを読むことに決定する。
 もしアウグスティヌスニーチェに未練があるなら、先ずは邦訳を読んで落ち着くことにしよう。


 引用したのはウェルギリウス『牧歌』の第一歌から、メリボエウスのセリフ。
 今日は韻律を取るのに苦労した。というより、韻律上こう読まなくてはならないということは分かっているのに、それでは意味が取れないのではないかと悩んだのだ。
 特に2行目のところ。suaは韻律上suāと読むはずだが、ずっとpōmaにかかると思っていたので(それならばaは短母音でなくてはならない)、どいうことだろうかと訝った。これは単純な勘違いである。suāはarboreにかかるのである。arbor(木)は女性名詞であるのに、フランス語のarbre(木)と混同して男性名詞と思い込んでいたのだ。
 このsuaは「果実自身の」ということであって、「彼女の(アマリリスの)」ということではなかった。アマリリスは上の2行で2人称の主語になっているから、そもそもその所有形容詞が3人称のsuaになるのはあり得ないことであったが、これはメリボエウスとティテュルスの会話なので、そのことにすら気づいていなかった。
 次の動詞は韻律上paterērisとならなくてはならないが、pateōの活用形かと思っていたので、どうしても理論上の母音になりそうになかった。これは大分ラテン語の勘が鈍っていたのである。この動詞はpatiorの接続法過去2人称単数の受動態の形であった。


   メリボエウス
私は不思議に思っていたよ。なぜ君が、アマリュリスよ、悲しげに神々を呼ぶのか、
誰のために君が、果実を木にぶら下がったままにしておくのかと。
ティテュルスがそこにいなかったのだ。ティテュルスよ、松の木も君を、
泉も、この果樹園さえも、君を呼んでいたよ。


   メリボエウス
わかったたよ。なぜアマリリスが悲しげに神々に祈っていたのか、
林檎を枝に残しておくのは誰にやるためか不思議だったが。
ティーテュルスが留守だったというわけだ。ああ、ティーテュルス、
松も泉も葡萄園も、みんなおまえを呼んでいたのに。

 上の小川正廣訳は割と原文に忠実であるようだ。多分原文の行とも全部対応しているのだろう。
 下のは河津千代という児童文学が専門の人の訳で、原文そのままと言うより、少し日本語を工夫しているようである。ここでは上の2行が3人称に改変されている。そこにいない人に2人称で呼びかけるという詩的効果は失われるが、引っかかりがなく読みやすい方を選んだのだろうか。
 しかし、素人の好事家と切り捨てて済ませるわけにはいかないようだ。あとがきを見ると、「折にふれて励まして下さった松平千秋先生、出版についてご心配下さった藤井昇先生」とある。両者とも西洋古典学の大家である。彼らのお墨付きがあるのであれば、信頼してよさそうに思われる。