本の覚書

本と語学のはなし

モンテーニュ全集7 モンテーニュ随想録7/モンテーニュ

 『随想録(エセー)』の第3巻第9章から第13章まで。これで終了。

(b) 彼らはその一生を流れ去らしめること・それをやり過ごしそれをかわすこと・「時」が彼らのうちにある間はまるで何か忌まわしい嫌なものででもあるかのようにそれを無視し回避すること以上に、良い生き方のあることを知らない。だがわたしは、人生とはそんなものではないと知っている。それは尊重すべきもの快適なものだと思っている。それが老朽の極にある現在もなおそうだから、わたしはそれをしっかりとにぎって離さない。いや、自然は人生それを、それにいろいろとあのように有難い風趣を添えて我々の手に渡して下さったのだから、もし人生それが我々に重荷となり、何の益も与えずに我々の手から逃げていくようならば、それこそ我々は自分に向かって苦情を言うより仕方がないのだ。 (c)《分別のない者の人生は不快であり不安である。それはいたずらに未来を思っておびえている。》(セネカ)(b) だがわたしは、いずれこの人生いのちを未練気なく失うことができるように、何とか準備をしている。と言っても、それは人生が失われるべきものだからであって、決してそれが苦しいいやなものであるからではない。(c) それに死ぬのをいやがらないということは、生きることを楽しむ人々にとってこそ、始めて似つかわしいと言えるのではなかろうか。(b) 人生を楽しむにはなかなか加減がいる。わたしはほかの人々の倍それを楽しんでいるが、まったく享楽の深い浅いは、我々がこれに注ぐ熱意の多い少ないによるのだ。特に今ではわたしの生が時間的にこんなにも短くなっているのを知っているから、わたしはそれを重みにおいて増したいと思う。わたしはそれが速やかに逃げ去ろうとするのを、わたしの速やかな把握によってとっつかまえ、旺盛な使用によってそのあわただしい流失を埋め合わせたいと思う。生命の所有が短くなればなるほど、わたしはその所有をますます深くますます充実したものにしなければならない。(p.335-6, 3巻13章「経験について」)

 『徒然草』のどこかに「人みな生を楽しまざるは、死を恐れざるがゆゑなり」という言葉があったと思う。裏返せば、人生を楽しむには正しく死を恐れていることが必要だということになる。
 一見「死ぬのをいやがらないということは、生きることを楽しむ人々にとってこそ、始めて似つかわしいと言えるのではなかろうか」というモンテーニュの言葉と相反しているようだが、私には両者がほとんど同じことを言っているように思える。
 死を恐れないということは、死を視界に入れず、日常性の内に頽落している様を表しているのだろうから。そして、モンテーニュは自分の生が「時間的にこんなにも短くなっている」こと、「それが速やかに逃げ去ろうとする」ことをはっきりと認識しているのだから。


 関根秀雄訳の全集はもう2冊ある。旅日記と書簡集である。
 しかし、それらを読む前に決着を付けておきたいことがある。ドイツ語をどうするのかということである。実を言えば、まだ揺れているのだ。
 近代語で力を入れるべきは英語とフランス語である。古典を読み、新聞を読み、ニュースを聞き、映画やドラマを見たい。
 加えて、最近自然科学への関心が高まってきた。宇宙と地球と生命について、最低限の知識を身に付けた上で、ものを考えたい。
 ドイツ語に力を入れるのは難しい。シェイクスピアモンテーニュと同等のレベルでニーチェを扱う(邦訳をある限り読み、原典を全て読み切ろうと望む)のは、無理がある。
 現在考えている選択肢は3つある。全体像の把握を放棄するとしても、ニーチェを継続する。寡作なビューヒナーに乗り換える。ギリシア語聖書やヘブライ語聖書を読む際に、ルター訳聖書を参照するだけにする。
 仮にルター訳聖書を選んだ場合、付随してもう1つの決定を迫られることになる。果たしてアウグスティヌスを読み続けるべきかどうか。ある限りの邦訳を読破するのは大変だし、原典講読は恐らく『告白』に限られるだろう。それならば、ウルガタ聖書で満足するべきかも知れない。
 とりあえずは読みかけのニーチェを終わらせ、その後にビューヒナーの全集を読んでみようと思う。河出書房新社版の『ビューヒナー全集』は、1冊の内に作品も書簡もドキュメントも全て収められている(ビューヒナーによる翻訳、例えばユゴーの『ルクレツィア・ボルジア』などはないが)。