本の覚書

本と語学のはなし

【ドイツ語】きわめて人間的・あまりに人間的な事実の向こう見ずな一般化【善悪の彼岸】

W e n n sie überhaupt noch steht! Denn es giebt Spötter, welche behaupten, sie sei gefallen, alle Dogmatik liege zu Boden, mehr noch, alle Dogmatik liege in den letzten Zügen. Ernstlich geredet, es giebt gute Gründe zu der Hoffnung, dass alles Dogmatisiren in der Philosophie, so feierlich, so end- und letztgültig es sich auch gebärdet hat, doch nur eine edle Kinderei und Anfängerei gewesen sein möge; und die Zeit ist vielleicht sehr nahe, wo man wieder und wieder begreifen wird, w a s eigentlich schon ausgereicht hat, um den Grundstein zu solchen erhabenen und unbedingten Philosophen-Bauwerken abzugeben, welche die Dogmatiker bisher aufbauten, — irgend ein Volks-Aberglaube aus unvordenklicher Zeit (wie der Seelen-Aberglaube, der als Subjekt- und Ich-Aberglaube auch heute noch nicht aufgehört hat, Unfug zu stiften), irgend ein Wortspiel vielleicht, eine Verführung von Seiten der Grammatik her oder eine verwegene Verallgemeinerung von sehr engen, sehr persönlichen, sehr menschlich-allzumenschlichen Thatsachen.

もっとも、それ〔独断論〕がなおも立っているとしての話だが! というのは、それは倒れた、すべての独断論は地面に倒れて最後の息をひきとろうとしている、と主張してあざ笑う者たちさえいるのだから。まじめな話、哲学におけるすべての独断化は、いかに晴れがましく振舞い、いかに最終かつ決定的であるかのような振りをしてきたにしても、所詮はいい気な子供だましか新米の仕業にすぎなかったのかもしれない、と期待しうる十分な理由があるのだ。また、独断論者たちがこれまで築きあげてきたような崇高かつ無制約の哲学的構築物に礎石を供するためには、いったい何があればそれで十分だったのかということが繰り返し理解しなおされるであろう時が、ひょっとすると間近に迫っているのだ、――それというのは、(主観や自我の迷信として、今日でもなお不祥事をひきおこすことをやめていない、あの霊魂の迷信のような)思いもおよばぬ大昔から伝わっている民族的迷信のようなものとか、ひょっとすると文法の方面からきた語呂合わせや駄洒落のようなもの、あるいはきわめて狭く、きわめて個人的な、きわめて人間的・あまりに人間的な事実の向こう見ずな一般化、などのことなのだが。

 まだ岩波文庫ビューヒナーは読み終わっていないが、ドイツ語の専門はニーチェに戻すことにほぼ決めている。
 ビューヒナーは時々読む分にはよいけれど、常に関わり合っていられるタイプの作家ではない。テキストの問題、ドイツ語の問題も軽視できない。正面から取り組むよりは、英語におけるジェイン・オースティンシャーロック・ホームズ、フランス語におけるフランソワ・ラブレーのように、たまにつついてみる程度でいいのではないだろうか。


 またニーチェの『善悪の彼岸』を読み始めた。前回どこまで行ったか分からないので、初めから。
 なぜニーチェを止めたのだろうか。
 一つには、各言語の専門を決めようとしていた時期の完璧主義のためである。残されているものは全て読まなくてはならないということにこだわるあまり、例えば書簡の数が多すぎるものは(テキストも入手しづらく、参照すべき翻訳もないことが多い)排除されたのだ。フランス語の専門がフローベールにならなかった決定的要因はそこにある。ニーチェもまた、書簡やら出版されなかった遺稿やら、膨大な文章が残されているのだ。
 しかし、今はそんなこだわりはない。可能な限り翻訳でも原文でも全部読みたいとは思うけれど、ヘブライ語旧約聖書を完読できるかと言ったらかなり難しい。シェイクスピアモンテーニュだって、今のペースではとても最後まで到達しない。アウグスティヌスはそもそもラテン語で読む作品を限定しているし、翻訳の著作集が収めるのは「ほぼ全作品」である(書簡は4割程度)。まして、ニーチェは網羅することを誇るべき思想家だろうか。
 一つには、ドイツ語にそれほど力を入れるつもりがなかったためである。例えば上に引用した文章(序文より)のように、当時の哲学者としては普通のことかも知れないが、ニーチェは時にかなり息の長い文章を書く(翻訳の「まじめな話」から最後まで、原文ではピリオドが打たれることはない)。ドイツ語の構造上、翻訳ほど込み入った感じはないのだけれど、それでも迷子になりそうになることがある。それで、聖書の翻訳ならば文章も短いし、原文を読んだ後に参照するので何が書かれてあるかあらかじめ知っているわけだし、楽だろうと考えたのである。
 独文専攻であったにもかかわらず、今は英語やフランス語の方を重視している。しかし、ドイツ語は高校時代に初めて独学で学んだ外国語である。簡単に捨て去ることは出来ない。ドイツ語らしいドイツ語に触れることを、まだ諦めるわけに行かない。
 そしてニーチェは、学生時代に客観的な確実性に呪縛されてほとんど失語症のようになったとき、再び語る勇気を与えくれた思想家である。私は今もまた失語症に陥っているのではないのか。当時とは違って、空虚な脳髄にもはや言葉が湧き出ることがないだけではあるが、それでもニーチェの独特な語りの節回しは、忘却の彼方に散在する言葉を何ほどか手繰り寄せてくれるのではないか。上に引用した文章が直接的に思考に材料を与えたわけでもないのに、今こうして久し振りに饒舌になっているのは、そのお陰であるのだろう。