本の覚書

本と語学のはなし

入門 老荘思想/湯浅邦弘

 知的な刺激を得るには物足りない本だが、竹簡や布帛の新資料を元に、従来の解釈を変更しなくてはならない可能性に触れているのはありがたい。


 特に『老子』の方は、馬王堆帛書や北京大学竹簡、郭店楚簡などなど、前漢や戦国時代にまで遡り得る写本が発見されている。原行本よりも数百年古いわけである。
 文字に大きく違いがあるわけではないが、その変更されているところ、あるいは章の配列が変わっているところを見ると、後世アンチ儒家の色合いが鮮明になった感はある。つまり、今まで考えられていたほどには、原老子儒家との対立から生じたものではなかったのかも知れないということになり得る。
 例えば有名な「大道廃れて仁義あり(大道廃、有仁義)」という言葉。古い写本では「故大道廃、安有仁義」となっている。読み下せば「ゆえに大道廃るれば、いづくんぞ仁義あらん」となるだろう。「大いなる道が廃れれば、どうして仁義があるだろうか」。すると、必ずしも仁義、孝行、忠義といった儒教的な徳目が否定されていたわけではないことになる。むしろそれらの根源として大道を考えていたのかも知れない。


 『荘子』にも出土資料はある。その意義は、従来偽作説のあった外物篇や譲王篇の一部が含まれていたこと。漢代初期には既に今の形で『荘子』が伝わっていたと考えられる。
 つまり、外篇や雑篇は純粋な荘子の思想とは多少違うところもあるかも知れないが、その由来は充分古いということになる。内篇のみで『荘子』を読んだ気になってはいけないのだろう。


 今の私は老荘思想に夢中になれるわけではない。高校時代の幸せな気分のありかを検証しているにすぎない。
 やがて飽きてしまえば、『荘子』外篇のどこかで金輪際老荘との関わりを絶つのかも知れない。或いは少なくとも漢文に触れていることのメリットだけは手放したくないと、惰性で少量ずつ読むことを日課とするのかも知れない。
 それにしても、私は老荘を実地に生きているのではないか。もはや老子荘子も必要としないほど充分に。