本の覚書

本と語学のはなし

ブラウン神父の不信/G. K. チェスタトン

 シリーズ第3弾。前作からは10年ちょっとのブランクがあり、その間にチェスタトンは正式にカトリックに改宗した。『不信』から『秘密』『醜聞』に至る後期3作は、宗教的な色合いが濃くなったと言われているそうだ。
 『不信』においてはカトリック的な理性による信仰、もっと適切に言うなら、信仰に至る理性が大方の予想に反して排斥するべきもの(不信)が強調されているように思う。
 短編集の最初に置かれた「ブラウン神父の復活」は、作中でも触れられているようにシャーロック・ホームズの生還を意識したものだが、こちらは本当に死からの復活が扱われている。しかも、復活した神父が真っ先にしたことは、これが奇跡などではないと言明することであった。
 最後に置かれた「ギデオン・ワイズの亡霊」では崖での対決があり(神父はこの対決に加わってはいないが)、こちらもシャーロック・ホームズの最後に不信の照明を当てたもののようである。


【語学】
 英語の中心はジェイン・オースティンであり、余裕があればホームズ・シリーズも原書で読もうと考えている。
 そこまでは何度も書いているが、更に余裕があったら、ローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』にも挑戦したい。
 18世紀中頃の牧師が書いた古典としては、随分けしからぬ内容のものであるようだ。ところが、今ではジョイスやウルフらの先駆者とまで見なされている。
 日本に最初に紹介したのは夏目漱石だと言われる。訳者としては朱牟田夏雄を有しており、この人は私が英語の師匠と勝手に決めている行方昭夫の師匠に当たる人。こうした点でも興味深い。


 フランス語の中心はモンテーニュであり、余裕があればフローベールも読もうかと考えている。
 更に加えて(あるいはフローベールを差し置いて)、ラブレーに挑戦したい気持ちが強くなっている。ラブレーは難しい。新訳を出した宮下志朗がそう書いている。訳を出すまでは正面から取り組むことは避けてきたらしい。
 しかし、ガルガンチュアが巡礼者をレタスごと食べてしまうところに目を通したところ、趣味として読むだけならば、決して無理ではないという気がした。
 スターンとかラブレーとかセルバンテスといった系譜も愛読書にしておきたいという欲求を、このところ強く感じる(セルバンテスを読むとすれば、もちろん翻訳である)。


 『論語』と『老子』と『荘子』も読みたい。
 『論語』と『荘子』内篇は高校生の時に読んだ。『老子』もいつのことかは忘れたが、少なくとも一度は読んでいる。
 私は殊に荘子贔屓であった。果たして今も共感できるものかどうか分からない。繰り返し愛読できるものかどうか分からない。しかし、どうしても今の私にとってどういう価値を持つものか、確かめておきたくなったのだ。