本の覚書

本と語学のはなし

衣ずれの音が次第に遠ざかり【英語】

 先日引用した「第二のしみ」(『シャーロック・ホームズの帰還』所収)の訳がちょっと雑だと思ったので、補足の記事を書く。
 ついでに、注釈も書き抜いて、それぞれの版の特徴を示しておきたい。


New Annotated Sherlock Holmes: The Short Stories (Annotated Books)

New Annotated Sherlock Holmes: The Short Stories (Annotated Books)

"Now, Watson, the fair sex is your department," said Holmes, with a smile, when the dwindling frou-frou of skirts had ended in the slam of the front door.(p.1203)

 先ずはクリンガー。ベアリング・グールド以降のシャーロキアンの研究成果が集められているようだ。
 2段組になっていて、中央寄りの段に本文とイラスト、外側の段に赤字で書かれた注釈という構成である。


 ホームズのセリフにたいする注。

The manuscript originally read, "`Now, Watson, what’s the meaning of this?’ asked Holmes."

 ドイル(もしくはワトソン)が最初に書いたときにはこの有名なセリフはなく、あっさりと「さてワトソン君、これはどういうことだろう」と尋ねただけだになっていた。


「ところでワトソン君、女性はきみの専門領域だ」ドアがばたんと閉まってスカートのさらさらという衣ずれの音が消えると、ホームズは微笑をうかべて言った。(p.27)

 先日引用した、東京図書版の訳。
 この訳だと、訳者の意図に反して、部屋のドアが閉まって衣ずれが聞こえなくなったかのような印象を与えるかもしれない。つまり、衣ずれは部屋の中を歩くときだけ聞こえていたということになる。
 訳出されてはいないが、「dwindle」は次第に小さくなるということである。探偵が住んでいたのは、ドアに到達するまでに衣ずれの音が段々小さくなると感じられるほど広い部屋ではない。
 しかも、ばたんと音を立ててしまったドアは「front door」だと書かれている。これは通りから建物に通じる(同じことだが、建物から通りに出る)正面玄関のことだろう。
 正確な状況はこうである。夫人が部屋を出て行くと、ホームズはしばらく、階段を降りて次第に小さくなっていく衣ずれの音に耳を傾けていた。夫人が正面玄関を出てドアが閉まるのを確認すると(ここで衣ずれの音も終わる)、ようやくホームズは笑みを浮かべてワトソンに話しかけたのである。
 時間的な含みのある、それ故この場面でホームズの慎重さをうかがわせる表現である。


 ホームズのセリフに対する注。

フェリックス・モーリー博士は「第二のしみの意味」(550)で次のように述べている。「相手が新婚早々の男なら、あるいは最近妻をなくした男ならますます、こんな口のきき方は下卑た言葉使いといってもよかろう。それゆえホームズのように、生まれつき繊細きわまる感情の持ち主には、そんなことはとても口にだせなかったろう。」

 これはワトソンの結婚の時期や回数などを特定するための状況証拠を示したものである。ベアリング・グールドの説では、この事件の直ぐ後にワトソンは1回目の結婚をする。
 病気の兄を看病するために渡米中、サン・フランシスコで開業医をしていたときに出会った娘が相手。ケンジントンであまりはやらない医院を開いた。しかし、1887年12月末頃、彼女は亡くなり、ワトソンはベイカー街に戻ってきた。
 もう一度書くが、これはあくまでベアリング・グールドの説である。


「さて、ワトスン、女性は君の担当分野だ」スカートの裾を引摺る、さらさらフルフルという衣ずれの音が次第に遠ざかり、玄関のドアが閉まる音がすると、ホームズは笑いながら言った。(p.475)

 これは時間の経過をしっかり反映させた訳である。
 挿絵を見ると夫人のスカートは普通に立っていても裾が床につくほどである。階段を降りるとなれば、ずいぶん摺れたにちがいない。
 難癖をつけるとすれば、スマイルは顔の表情で表現されるものであって、声を立てて笑うことではない。日本語で「笑いながら」と書けば、「ハッハッハ」と聞こえてきそうである。


 河出書房新社の全集はオックスフォード版を訳したものである。その注はホームズ学的と言うより、ドイル学的と言うべきものらしい。
 ホームズのセリフに対する注。

この有名な言葉は原稿の段階で「ところでワトスン、これは一体どういうことだろうね」という、ごく平凡な言葉と差し替えられたものであった。《四つのサイン》でワトスンは、自分自身で「わたしはこれまで、三大陸の数多くの国々で、様々な女性を見てきた」と語っている。(p.654)

 フルフルに対する注。

“frou-frou” とは、裾の長いスカートがたてる衣ずれの音の擬音語である。また、1903年6月16日にアデルフィ劇場で初演された、ヘンリ・マイラックとルドヴィック・ヘルヴェイの合作になる音楽劇の題名である。(p.654)


【家庭菜園】
 折りたたみ式の鎌を購入した。
 仕事帰りに路傍のイネ科の雑草を刈る。のこぎり状の歯が付いているので、細くて丈夫な茎も簡単に切れる。
 草生栽培においては「持ち込まない」ことを大原則とする人もあるが、家の庭のようなところで家庭菜園をしていると、とても十分な草を確保することが出来ない。足りなければ土手などで刈ってくるとよいとアドバイスする人も多くあるので、今回初めて試してみたのである。
 もっと早く始めていればよかった。