本の覚書

本と語学のはなし

あなたの掟を見出す【ラテン語】

Confessions, Volume I: Books 1-8 (Loeb Classical Library)

Confessions, Volume I: Books 1-8 (Loeb Classical Library)

  • 作者:Augustine
  • 発売日: 1912/01/15
  • メディア: ハードカバー
告白 上 (岩波文庫 青 805-1)

告白 上 (岩波文庫 青 805-1)

 アウグスティヌス『告白』4巻9章14より。

Te nemo amittit, nisi qui dimittit, et quia dimittit, quo it aut quo fugit nisi a te placido ad te iratum? Nam ubi non invenit legem tuam in poena sua? Et lex tua veritas et veritas tu. (4.9.14)

あなたを見捨てるもののほかは、だれもあなたを失うものはない。あなたを失うものは、あなたを見捨てるからである。しかし、あなたを見捨てて、どこに行き、どこに逃れるのであるか。柔和なあなたから去って、怒りのあなたのもとに行くのか。そのような人は、自分の受ける罰のうちに、かならずあなたの掟を見出すにちがいない。あなたの法は真理であり、真理はあなたなのである。(p.108)

 原文では同じ言葉なのに、なぜ「掟」と「法」と訳し分けているのか分からない。宮谷訳ではともに「律法」、英訳ではともに大文字の「Law」である。
 それはともかく、神の法が真理であり、真理が神であるなら、神は法そのものであるような存在なのかもしれない。少なくとも、法は神の属性もしくは様態の一つであるのかもしれない。
 そしてまた、信仰は理性の内に宿るべきものなのかもしれない。


【語学】
 前回、鷗外を日本語の専門とすると書いたが、その余裕はなさそうだ。
 たまに読むくらいがちょうどいいのかもしれない。


 英語の専門はジェイン・オースティンにするつもりであったが、最近ドラマで『ブラウン神父』を見始めて、チェスタトンにしようかと迷っている。
 オースティンならば残された作品は原文でも翻訳でも紙で簡単に手に入るし、それほど量は多くないから全貌をつかむのも難しくはないだろう。
 チェスタトンを選ぶならば、原文は電子書籍にも頼らなくてはならなくなる。小説はだいたい翻訳されているようだが、膨大な量のエッセイや評論の内、日本に紹介されているものは恐らくごく一部に過ぎない。しかも、南條竹則によれば、チェスタトンは「小説家というよりも、文人というよりも、ジャーナリストというのがふさわしい」(光文社古典新訳文庫版『木曜日だった男』の解説より)のだから、彼の本領のほとんどは我々に知られていないことになる。
 チェスタトンを専門にすることは、かなりの困難を伴うのである。それでも迷うのは、小学生の時に図書館で借りていた子ども向けの海外推理小説シリーズの中で、妙にブラウン神父が私の記憶に残り続けたこと(私の読書体験の原点の一つである)、そして今ドラマを見ていて、これはミステリーであるだけでなく、過剰なほどにカトリックであるのだと今更ながら気がついたことが(どの程度原作を反映しているのかよく分からないが)、その理由である。
 『エマ』を読み始めたところであるが、上からの啓蒙らしきものに行き当たったところで一旦(あるいは永遠に)中断し、無政府主義者秘密結社の話であるらしき『木曜日だった男』を再読してみることにした。


ふん、君はつまらん詩や散文を読むがいい。僕は時刻表を読みながら、誇りの涙を流したいね。(p.20)


 特に原文を確認する必要はないかもしれないが、チェスタトンの生の文章はこうである。

No, take your books of mere poetry and prose; let me read a time table, with tears of pride.

 チェスタトンにとって、狂気は理性の内にこそ宿るべきものであったようだ。


【筋トレ】
 思うようにトレーニングできないので、2分割にしてみる。最低週2回なら何とかなるだろう。
 各部位1種目のみ。合計で7種目である。


【家庭菜園】
 6月11日に植えたトウガラシの初収穫。
 トウガラシの苗はたくさん貰った。その内9本が無事に育っている。順調に収穫できるとしたら、とても消費しきれないだろう。


 今更ながら、貰ったゴーヤーの苗が邪魔になってきた。
 2本貰った。1本は5月18日に植えたゴーヤーの脇に、もう1本はトマトの支柱が倒れないように斜めに取りつけた支柱の下に植えた(6月11日)。前者は隣のゴーヤーと渾然一体となって、どれがどれだか分からない。後者はトマトのために日陰を作ってしまう。


 5月18日に植えたゴーヤーはどんどん実がなる。


 6月6日に植えた中玉トマトとミニトマトも、日々少しずつ収穫できるようになった。
 しかし、葉っぱにカビが繁殖している。下葉が枯れてきた。これはうどんこ病だろうか。
 思い切って葉を整理し、風通しをよくした。


 7月17日の秋キュウリは病気にかかったようだ。
 5月18日に植えたキュウリのそばに残した苗は倒れてしまった。
 移植した2本の苗も元気そうには見えない。苗カバーを外し支柱も立てておいたが、期待はしないことにする。
 病害虫の被害に遭って、苗づくりの必要性を本当に認識させられるようになるのだろう。苗をつくる余裕がなければ、種を直まきをするより苗を買った方がいいかもしれない。


 5月18日に植えたキュウリはもう限界と判断して、株を倒した。
 母は秋キュウリに未練があるようだが、苗はもう売っていなかった。7月17日のものを再移植するのも面倒なので、もう一度種をまいてみた。
 もう遅すぎるかもしれないし、また病気に冒されるかもしれない。これもまた期待しないことにする。ダメならカブの種でもまき、ネットにはゴーヤーを誘引しよう。


 6月30日のツルムラサキの苗カバーを外した。
 まだツルは出てきていないが、支柱を立てておいた。成長がゆっくりすぎて、夏の間に収穫できるのかも分からない。


 7月17日のエンサイ(クウシンサイ)の苗カバーを外した。背丈は伸びたがまだ細い。またネキリムシにやられるのではないかと心配したが、今のところ被害には遭っていない。
 6月22日のエンサイはわき芽を収穫できるようになってきた。しかし、思っていたほど旺盛には茂らない。肥料が足りないのだろうか。
 炒め物にして食べてみた。調味料にかき消されて、エンサイの味が全く分からない。真夏に手間をかけず育てられる便利な野菜ではあるけど、来年も作るかどうか決めかねる。


 6月6日のオクラがようやく花を付けた。もうすぐ収穫できそうだ。


 6月30日のつるなしインゲンの収穫が始まった。


 6月18日のマリーゴールドは全ての株が花を付けた。
 同日のサルビアはゆっくりゆっくり育っているけれど、大きくならない内に6月22日と27日に植えたサツマイモのつるに呑み込まれてしまうだろう。


 6月6日の小ネギ(トマトと同じ畝にまいた)はいつの間にかほとんど姿を消している。
 母が雑草と間違って刈り倒しているのかもしれない。