本の覚書

本と語学のはなし

何が自分の内に起っているかを意識せずに【ラテン語】

Confessions, Volume I: Books 1-8 (Loeb Classical Library)

Confessions, Volume I: Books 1-8 (Loeb Classical Library)

告白録 (キリスト教古典叢書)

告白録 (キリスト教古典叢書)

 アウグスティヌス『告白録』第四巻第三章より。

Si enim de paginis poetae cuiuspiam, longe aliud canentis atque intendentis, cum forte quis consulit, mirabiliter consonus negotio saepe versus exiret, et mirandum non esse dicebat, si ex anima humana, superiore aliquo instinctu, nesciente quid in se fieret, non arte sed sorte sonaret aliquid, quod interrogantis rebus factisque concineret.

たとえば、ある人が助言を熱心に求めて、自分の好きな詩人の頁をめくっていると、全く別なことを歌い、意図しているのに、不思議なほどその事柄に合致する詩句に出会うことがままあります。あるいはまた、もし、人間の魂が何か上から来る霊感のようなものによって、何が自分の内に起っているかを意識せずに、つまり、技術によらず、偶然によって、何が意味されているかを感得し、質問している人の事柄や行動に符合することを語ったとしても、驚くにはおよばない、と老人は言いました。(p.110)

 訳は必ずしも正確ではない。余計な付け足しがあるし(「何が意味されているかを感得し」)、恐らく誤訳であろうという部分もある(「熱心に」や「自分の好きな」。これは「たまたま」と「ある」にすべきだろう)。


 アウグスティヌス占星術に凝っていた頃、かつて自身もその術で生計を立てようとしていたある老人医師に「なぜ占星術は当たるのか」と質問した。その答えの後半である。
 これをアウグスティヌスは、この老人が、否むしろ彼を通して神が、備えをしてくれたのだと考える。
 何の備えであったのだろうか。例えば、第八巻第十二章の有名な逸話が思い出される。たまたま隣家から子どもの声が聞こえた。「取りて読め、取りて読め」(tolle lege, tolle lege)。この声に彼は神の啓示を聞いた。
 聖書を取り、最初に目にとまった個所を読んだ。ローマ人への手紙第十三章十三節から十四節の部分である。「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません」(新共同訳)。この瞬間に、彼の疑いの闇は消え去ったのである。
 なお、「隣家から」(de vicina domo)を、最古の写本では「神の家から」(de divina domo)としているという。