本の覚書

本と語学のはなし

いま、わかった【ヘブライ語】

Biblia Hebraica Stuttgartensia

Biblia Hebraica Stuttgartensia

  • 作者:Elliger, K.
  • 発売日: 1990/06/01
  • メディア: ペーパーバック
旧約聖書〈1〉創世記

旧約聖書〈1〉創世記

  • 発売日: 1997/03/05
  • メディア: 単行本
 創世記22章12節。原文と岩波書店の月本昭夫訳。

וַיֹּ֗אמֶר אַל־תִּשְׁלַ֤ח יָֽדְךָ֙ אֶל־הַנַּ֔עַר וְאַל־תַּ֥עַשׂ לֹ֖ו מְא֑וּמָּה כִּ֣י׀ עַתָּ֣ה יָדַ֗עְתִּי כִּֽי־יְרֵ֤א אֱלֹהִים֙ אַ֔תָּה וְלֹ֥א חָשַׂ֛כְתָּ אֶת־בִּנְךָ֥ אֶת־יְחִידְךָ֖ מִמֶּֽנִּי׃

使いは言った、「少年に手をのばすな。彼に何もしてはならない。いま、わかった、あなたが本当に神を畏れる者である、と。あなたはわたしのために息子さえ、あなたのひとり子さえ、惜しむことをしなかった」。

 聖書を読んだことのある人には要らぬお節介だが、一応昨日の続きを引用しておく。
 息子のイサクを全焼の供犠として献げなさい。アブラハムは突然神の試みを受ける。彼はイサクを連れモリヤの地に行き、祭壇を築き、息子を縛り、薪を積んで、刃物を手にした。
 そこに天から神の使いが現れる。話しているのは天使であるが、内容を見れば実質的に神の言葉である。


 神の「いま」とは何であろうか。
 神の呼びかけに対して間髪を入れずに「はい、ここに」と応答する信仰だけでは不十分なのであろうか。
 人間的な常識を外れたところにまですら行き得るほどの信仰を行動によって示したとき、初めて「いま、わかった」と了承され得るものなのであろうか。
 アブラハムが義とされた神の「いま」を我々は那辺に置くべきなのだろうか。


 そして、その神の「いま」は、自らのひとり子を十字架において殺したと信じられる限りにおいて、あるいは・・・。