本の覚書

本と語学のはなし

キリスト教入門/P. ネメシェギ

 カトリック入門である。
 新たな知識を仕入れるということはなかった。しかし、幼児洗礼については、そういう考え方もあったのかとハッとした。プロテスタントの中には幼児洗礼を認めない人たちもいるし、私もそれが習慣以上のものであるとは考えてみたことがなかった。

 洗礼について語るとき、幼児洗礼のことにも触れておく必要がある。信者の家庭で生まれた幼児に洗礼を授けることは、古代教会から守られてきた習慣である。秘跡一般について語ったとき、各秘跡を通して、イエススが私たちに恵みを与えながら、信仰、希望、愛に至るように私たちを招いていると説明した。そしてその招きに私たちが答えるべきであるということをも付言しておいた。秘跡の働きのこの構造を考えてみると、幼児洗礼の意味もよく理解できると思う。すなわち、幼児の場合も、神の恵みによる招きが本人の意思に先行して与えられる。それによって、幼児は新しいアダムであるキリストのものとされ、旧いアダム、原罪に染まった人類との、悪における連帯性から解放され、聖霊による、善における連帯性の中に組み入れられる。この幼児も、いつの日にか自分自身で、神を信じ、キリストが愛したように愛するという人生の道を選ばなければならない。そのとき、信仰と愛の選択が正しく行われるように、その人の中に招きとしてすでに内在している聖霊が、心を照らし、開き、引き寄せ、導いてくれるのである。(p.266-7)

 この本の凄いところは、翻訳ではないということである。


 今後は小説も再び読もうと思う。
 キリスト教は聖書学を中心にして、護教的なものは避ける。