- 作者:田川 建三
- 発売日: 2007/07/01
- メディア: 単行本
Ὡς ἐν πάσαις ταῖς ἐκκλησίαις τῶν ἁγίων αἱ γυναῖκες ἐν ταῖς ἐκκλησίαις σιγάτωσαν· οὐ γὰρ ἐπιτρέπεται αὐταῖς λαλεῖν, ἀλλ’ ὑποτασσέσθωσαν, καθὼς καὶ ὁ νόμος λέγει.
Sicut in omnibus ecclesiis sanctorum, mulieres in ecclesiis taceant, non enim permittitur eis loqui; sed subditae sint, sicut et lex dicit.
邦訳は田川建三訳。
聖者たちのすべての教会でそうであるように。
女は教会では黙っているがよい。女には語ることは許されていない。女は従属しているべきなのだ。それはまた律法も言っていることである。
マリアをほとんど神格化するキリスト教徒たちがいるように、パウロをほとんど神格化するキリスト教徒たちもいる。彼らはパウロの書簡に現代の価値観にそぐわない部分を見つけると、いろいろ理屈をつけてこれはパウロ以降の挿入であると主張するのが常である。
引用したところもそのひとつ。岩波訳の翻訳者(青野太潮)もパウロ主義者であるから、後世挿入説が真実であると断言している。
しかし、田川は言う。
この句を中心に33-34節(ないし33節後半-36節)は後世の挿入である、という説がある。基本的な理由は、聖なるパウロ様がここまで露骨に女性差別的な発言をしたんじゃ、現代キリスト教会にとって都合が悪いから削除してしまえ、ということだが、神学者たちはずるいから、そうとはっきり理由を言うことはしない。(p.365)
根拠と言われるものを一つ一つ根拠にはならないと切り捨て、最後にまた念を押す。
要するに、最初に指摘したように、これらの学者たちは、聖パウロがこんなおぞましいことを言ったのでは困るから、そういう厄介なせりふは聖書から削除してしまえ、と主張しているのである。しかし、そういうことをやるのなら、はじめから昔の聖書なんぞやめてしまって、御自分たちに都合のよろしい現代版「聖書」を御自分たちの手でお書きになる方がましだろう。気に入ろうと気に入るまいと、パウロとはそういう人なのだ。多くの読者たちは、「女は黙っていろ」などとは、ずい分ひどいことを言うね、とあきれられるだろう。まったくね。しかしそれなら、このせりふはなかったことにしよう、などと誤魔化さずに、パウロというのは嫌な奴だ、と正直に認識なさればよろしい。それが事実なんだから。(pp.368-9)
田川は殊更パウロを嫌っているようだが、そこまででなくとも、パウロをその神学的な高みにもかかわらず、大いに欠点のある一人の人間として捉える方がよほど面白いのではないかと思う。
先ほど書いた日課の削減。
現在考え得る限り極限まで削ってみたら、こうなった。タイム、ディプロ、リスニング、新約聖書、フランシスコ会訳聖書、読書。