本の覚書

本と語学のはなし

様式史とは何か/エドガー・V・マックナイト

 様式史は聖書研究の方法論の一つである。福音書の伝承は歴史的真実を指し示すのではない。伝承は教団において創出された様式であり、それを保持した人々の生活の座を反映するものである。

ディベリウスとブルトマンによればさらに、個々の伝承断片はイエスに遡るものではない。それは、教会がおのが目的のために定型化したものなのである。われわれは、そこにみられる「付加部分」を削除して、イエスの時代に淵源する原初の様式に遡るのではなく、教団において創出された様式に遡るのである。(p.70)


 訳書には、補遺としてカールストンの「真正性の積極的基準?」という論文が収められている。

とはいうものの、原始教団におけるイエスの使信の漸次的改変について、それのかなり説得的な再現が、概ね「否定的」な基準を用いることによってもたらされつつある。すなわち、伝承の原初層が、さまざまな理由に基づいて、イエスに帰され得ない要素を削除することによって、もとめられるわけである。ブルトマンは、基準として、ユダヤ教的敬虔への批判、イエスに特長的な終末論的雰囲気、そして特にキリスト教的な痕跡の不在を示唆している。ケーゼマンによれば、当該の伝承が何らかの理由でユダヤ教から導き出されないか、もしくは原始キリスト教に帰されえないとき、特に、ある特定の言葉の鋭さがユダヤキリスト教によって鈍化されている証拠がみとめられる場合、われわれは確かな地平に立っている。この原理をコンツェルマンはいっそう直截に述べる――同時代のユダヤ教思想あるいは後のキリスト教団に適合しない資料は、〔真正のものとして〕受け容れられ得る。(pp.160-1)

 もっとも、この論文はもっと積極的な基準を提出しようという試みである。その二つの基準を紹介しておく。

(1) 真正の譬えは、イエスの使信に特長的である終末論的に基礎づけられた悔改めの要求に、比較的よく適合するであろう。
(2) 真正の譬えは、復活節後の教会おいて得られた条件よりも(それが含まれる場合もあるが)、イエスの地上の働きの間にみられた(社会的、政治的、宗教的、言語的等々の)諸条件を反映するか、あるいはそれと適合しているであろう。(pp.162-3)


 古い本である。最近はもう少し積極的にイエスに遡ろうとする傾向がありそうに思う。