本の覚書

本と語学のはなし

焼かれるためか誇るためか【ギリシア語・ラテン語】

新約聖書〈4〉パウロ書簡

新約聖書〈4〉パウロ書簡

Textual Commentary on the Greek New Testament

Textual Commentary on the Greek New Testament

 コリントの信徒への手紙一13章3節のギリシア語とラテン語訳と新共同訳。

κἂν ψωμίσω πάντα τὰ ὑπάρχοντά μου καὶ ἐὰν παραδῶ τὸ σῶμά μου ἵνα καυχήσωμαι, ἀγάπην δὲ μὴ ἔχω, οὐδὲν ὠφελοῦμαι.

Et si distribuero in cibos omnes facultates meas et si tradidero corpus meum, ut glorier, caritatem autem non habuero, nihil mihi prodest.

全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。

 これだけ見ると何の問題もなさそうであるけれど、実は καυχήσωμαι に は καυθησομαι という異読があって、ネストレでも昔はこちらを採用していた。それで、新共同訳を除く有力な日本語訳は、全て「誇ろうとして」の部分を「焼かれるために」と訳しているし、最近の岩波訳や田川訳でもネストレの新しい読みは退けている。
 岩波訳の注。

定本は二十六版以降「誇るために」(kauchēsomai)〔ママ〕を原文として採用しているが、それが二次的に「焼かれるために」(kauthēsomai)、つまり殉教死をめざす言葉へと変更される動機が十分であるか訳者には疑問であるし、「誇るために」であったならば、そもそもそれはすでに愛のない業であるから、文脈に合わないので、後者をここでは採用した。(p.106)

 どういうことかというと、文献学にはより困難な読みを採るという lectio difficilior という原則があって、ここでは「誇るために」から「焼かれるために」という異読が生ずるより、その逆の方が可能性が高いだろうと言うのである。


 実を言えば、引用したラテン語訳は改訂されたウルガタであって、古いウルガタでは ut glorier ではなく、ut ardeam となっている。手元にあるルター訳では und ließe meinen Leib verbrennen であるし、エルサレム訳では quand je liverais mon corps aux flammes であるし、欽定訳は though I give my body to be burned である。
 それでも「誇るために」を採用した理由について、メッツガーは四つの理由を挙げている。第一に、「誇るために」から「焼かれるために」という変化は、火に焼かれる殉教の時代が到来した後には別に困難なことではない。第二に、「誇るために」が一人称であるのは不自然でないが、「焼かれるために」は主語として「私の体」を要求するのが自然であり、したがって動詞が三人称でないのはどうも不自然である。第三に、「焼かれるために」には接続法未来の異読もあるが(καυθησωμαι)、それはパウロ的ではない。第四に、文脈上「誇るために」は相応しくないという反論もあるが、パウロは決して誇ることを非難すべきとは見做しておらず、むしろ正当化されると考えている。
 ただし、「誇るために」の確からしさの判定は C であり、きっぱり断言できるようなものではない。
 それと、きちんとメッツガーの文章を読んでみたわけではないけれど、この部分がパウロ自身の文章ではない可能性はまったく考慮されていないように見える。