本の覚書

本と語学のはなし

ギリシャ正教/高橋保行

ギリシャ正教 (講談社学術文庫)

ギリシャ正教 (講談社学術文庫)

 ギリシャ正教の信仰と神学は、奉神礼の中で表現され、体得されるべきもののようであるから、なかなか外部の人には分かりにくい。だから、内部の人によって書かれたこの入門書は、とても貴重である。
 ただ、どうしても東のキリスト教のみが中東に発したキリスト教を歴史的にも思想的にも正しく伝えているのであって、西のキリスト教は本来のキリスト教の姿を歪めており、殊にカトリック教皇権の主張などはとんでもない詐欺であるという立場を固守するところがある。西のキリスト教徒にとっては反論したくなる場面も多々あるだろう。一番いけないのは、西のものは合理主義でしかないと単純に考えている点である。

ギリシャ正教の思想では、人が自分の意志と力で神の似姿を脱いでしまうことを堕落という。すでにみたように、堕落の罪は人の行為により生じるとするので、アダム以来人の性質に本来あるという西のキリスト教の原罪の考え方は、ギリシャ正教の思想にはない。(p.260)

 正教に原罪などという概念はない。これには驚いた。キリスト教の教義は必ず原罪を前提するものと思い込んでいたからである。
 なるほどそれなら東と西のキリスト教が大きく異なっても不思議ではない。


 奉神礼で用いられる聖書に相当する経典は、福音経(四福音書)、使徒経(使徒言行録と使徒の書簡)、聖詠経(詩編)の三つのようだ。黙示録は含まれない。詩編を除く旧約聖書は、他の経典の中で引用され使用さはするが、一つの書物としてはまとまっていないらしい。
 これも西のキリスト教徒には、特にプロテスタントには理解しにくい点であろう。


 日本の正教が古臭い用語にこだわっているのは損である気がする。
 正教が日本に入ってきた時に作られた訳語を、今に至るまで忠実に守り続けているのかもしれないし、そういう保守性が正教の長所であるのかもしれないが、生神女(しょうしんじょ)とか斎(ものいみ)とか傅膏機密(ふこうきみつ)とか、果たしてこれは神道用語か仏教用語かと思ってしまいそうである。
 歴史のある時点で固定化され、長い伝統となったものが、必ずしもオリジナルであるわけではない。