本の覚書

本と語学のはなし

わたしはこの肉で神を見るであろう【聖書】

聖書 -原文校訂による口語訳

聖書 -原文校訂による口語訳

 復活祭が終わったけれど、相変わらず教会とは何の関係も持たずに暮らしている。
 久しぶりに近くの教会のホームページを幾つかのぞいてみた。
 日本基督教団のところは三月の異動で牧師が替わり、ホームページの更新が中止されていた。前の牧師さんが個人で作ったものらしく、新任の人には引き継がれないようだ。新しい牧師がさんが新しいホームページを作るのかどうか分からないし、割と若い女性らしいその牧師さんがどんな人であるのかもよく分からない。プロテスタントは良くも悪くも牧師さん次第である。
 我が家から一番近いかもしれない福音主義の教会は、昨年末ごろに女性の牧師さんが退任して、今はそのまま司牧者のいない状況が続いているようだ。他の教会への転出ではなさそうである。過去にはブログがすべて削除されていたこともあったので、体調の問題でもないかもしれない。
 カトリックはこの辺りでは教区のホームページしかなく、個々の教会の情報に乏しいが、人事異動は教区で一括して報告してくれている。しかし、誰がどんな顔をしてるのかも知らないから、感想の持ちようもない。


 聖書は再びフランシスコ会訳を読んでいる。
 日々、気になるところを一箇所だけ書き抜いておきたい。前からそうは思っているのだが、続きそうにない。
 とりあえず今日は、ヨブ記19章26節。

わたしの皮が、このようにはぎ取られた後、
わたしはこの肉で、神を見るであろう。

 最も弱いところに在る神を、不条理に虐げられた肉体において見るという、ある種の神秘思想のようにみえる。
 パウロの肉体の棘、あるいはイエスの十字架上の呪われた死。それもまた、神との対話であったかもしれない。


 だが、この部分、原文の解釈にはだいぶ幅があるようだ。岩波訳では「この肉で」のところを「わが肉なしに」と訳している。これでは全く反対のことを言っているようである。
 原文のミベサリのミという前置詞は英語の from に相当するのだが、神を見る時期(生存中か死後か)、条件(肉体へのこだわりの有無)、神学的関心(復活への証言とみなすか否か)の違いによって、古来訳し方が分かれてきたらしい。
 七十人訳はかなり異なった表現をしているので、たぶん底本が現行のマソラのテキストとは違うのだろう。
 ウルガタは in carne mea であるから、欽定訳、フランシスコ会訳、バルバロ訳、新共同訳、中澤洽樹訳(「この〔無惨な〕肉で」!)がこのラインである。JPS も while still in my flesh としているから、ユダヤ教の神学的伝統はこちらの立場かも知れない。
 文語訳は「われ肉を離れて」としていて、口語訳、関根正雄訳、岩波訳(たぶんルターも)はこちら側。岩波訳の考え方としては、神との応答関係が肉の次元を乗り越えさせており、ヨブは肉にこだわる友人の立場を批判しているのだ(敢えて22節と同じ表現を別の文脈に移して)とのこと。
 新改訳は解釈を入れずに「この肉から」と直訳している。