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本の覚書

本と語学のはなし

アウグスティヌスのマニ教証言【ラテン語】

Confessions, Volume I: Books 1-8 (Loeb Classical Library)

Confessions, Volume I: Books 1-8 (Loeb Classical Library)

告白録 (キリスト教古典叢書)

告白録 (キリスト教古典叢書)

Haec ego nesciens, inridebam illos sanctos servos et prophetas tuos. et quid agebam, cum inridebam eos, nisi ut inriderer abs te, sensim atque paulatim perductus ad eas nugas, ut crederem ficum plorare, cum decerpitur, et matrem eius arborem lacrimis lacteis ? quam tamen ficum si comedisset aliquis sanctus, alieno sane, non suo scelere decerptam, misceret visceribus, et anhelaret de illa angelos, immo vero particulas dei, gemendo in oratione atque ructando : quae particulae summi et veri dei ligatae fuissent in illo pomo, nisi electi sancti dente ac ventre solverentur. et credidi miser magis misericordiam praestandam fructibus terrae, quam hominibus, propter quos nascerentur. si quis vero esuriens peteret, qui Manichaeus non esset, quasi capitali supplicio damnanda buccella videretur, si ei daretur. (3.10)

 わたしはこのことを知らずに、あなたの聖なる僕と預言者たちを嘲笑していましたところが、彼らを嘲笑しながら、わたしがなしたことといえば、あなたから嘲笑される以外の何だったでしょうか。つまり、わたしは気づかぬ間にあの馬鹿げたことにしだいに引きずり込まれていき、無花果はもぎとられるとき、親木もその実も乳の涙を流して泣く、と信ずるようになっていました。
 この無花果を誰かある(マニ教の)聖者が、たとえ自分ではなくても、他人の汚れた手でもぎとり、食べて、内臓で混ぜ合わせ、祈りながら呻いたり、げっぷしたりすると、天使たちどころか、実に神の断片さえも吐き出す、というのです。最高の真なる神のこれらの断片は、もし、選ばれた聖者たちの歯と胃袋によって解き放たれなかったならば、あの果実の中に囚われたままになっていた、というのです。
 そこで、哀れなるかな、わたしは、人間よりも人間のために栽培されている地上の果実の方にずっと多くの憐れみをかけるべきだ、と信じていました。実際、もし、誰か、マニ教徒ではなく、飢えているひとが果実を求めたとき、そのひとに一口でも与えようものならそれは死罪によって処罰されるべきである、とさえ思われました。(p.99-100)

 アウグスティヌスは若い頃、マニ教に心酔していたことがあった。この部分は彼自身によって語られたマニ教の教えの一端である。
 グノーシス的なものは神話的な形態をとって語られることが多いが、これを見ると便宜上用いられた単なる比喩なのではなく、文字通りに神話的表現が信じられていたということだろうか。

臨済録

臨済録 (岩波文庫)

臨済録 (岩波文庫)

 神の断片を吐き出すという表現に、一瞬『臨済録』が頭を過ったが、内なる真の自己を覚知することの重要性を強調する点で共通するものはあるものの、ここの部分とは何ら関係はなさそうである。

【原文】
赤肉團上有一無位眞人、常従汝等諸人面門出入。未證據者看看。


【読み下し】
赤肉団上(しゃくにくだんじょう)に一無位の真人有って、常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は看よ看よ。


【日本語訳】
この肉体には無位の真人がいて、常におまえたちの顔から出たり入ったりしている。まだこれを見届けておらぬ者は、さあ見よ! さあ見よ!(p.20-1)

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