どこでもいいが、一つだけ。
パウロが言及する異言(グロッソラリア)というものについて。主客未分の宗教体験を言語にならない言語で発するもののようだが、これはコリント教会でのみ突発的に起きたものではなく、ヘレニズム宗教文化において広範囲に見出される現象であるという。
いくつもの引照がなされる中から、『ギリシア語魔術パピルス』の一節。
なぜなら、わたしは火急で辛苦かつ容赦なき必要に迫られて、いまだかつて死すべき本性の人間の中に入ったこともなければ、人間の舌や音声で分節されて語られたこともない活ける尊い名前を連呼するからである。エーエオー・オエーエオー・イオーオー・オエー・エーエオー・オエー・エオー・イオーオー・オエーエーエ・オーエーエ・オーオエー・イエー・エーオー・オオー・オエー・イエオー・オエー・オーオエー・イエオー・オエー・イエエオー・エエー・イオ―・オエー・イオエー・オーエーオー・エオエー・オエエー・オーイエー・オーイエー・エオー・オイ・イイイ・エーオエー・オーウエー・エーオーオエーエ・エオー・エーイア・アエーア・エエーア・エーエエエー・エエエー・エエエー・イエエー・エーエオー・オエーエエオエー・エーエオー・エーウオー・オエー・エイオー・エーオー・オーエー・オーエー・エエ・オオオ・ウイオーエー。(大貫隆訳)(p.227-8)
タイポがあるかもしれないが気にしないでほしい。とてもチェックする気になれない。