本の覚書

本と語学のはなし

アンスタブル【英語】

The Summing Up (Vintage Classics)

The Summing Up (Vintage Classics)

サミング・アップ (岩波文庫)

サミング・アップ (岩波文庫)

 行方昭夫の訳は、ここまでやってもいいのだろうかと思うことが少なからずあるのだけど、作者の意図を汲み取る上では(本当に難しい文章では、その可能性のひとつに過ぎないこともあるが)、参考になる。


 紹介するのは、原文自体は別に難しくないが、訳者の癖が出そうなところ。先ずは行方訳から。

英語の発音に関しては長いあいだ自信が持てずにいた。イギリスに移って、パブリックスクール入学前の小学校にいた頃、「水のようにアンステイブル(不安定)」という句を発音するとき、「アンスタブル」とフランス語風に発音したものだから、みんなが爆笑して恥ずかしかったことは今でも忘れられない。(p.28)

 こう書いてあれば、原文のどこかに French という単語があるのだろうと想像するだろうか。モームはそういう野暮な表現はしない。

I was so long uncertain about the pronounciation of English words, and I have never forgotten the roar of laughter that abashed me when in my preparatory school I read out the phrase ‘unstable as water’ as though unstable rhymed with Dunstable. (p.19)

 モームは幼少の頃パリで暮らしていた。英語の発音には自信がない。イギリスに戻り、preparatory school (説明的に「パブリックスクール入学前の小学校」と訳されている)でアンステイブルをアンスタブルと読んでどっと笑われた。だがそれは、フランス風に読んだのではなく、as though unstable rhymed with Dunstable と言われている。ダンスタブル(人名もしくは地名)と同韻語であるかのように、アンステイブルをアンスタブルと発音してしまったというのである。
 直訳しても、フランス語を知らない人にはそれがフランス風の発音であることは分からない。そこを親切に分からせてあげるか、作者と一緒につんとすますか、注釈をつけるか。選択肢はいろいろとある。
 行方は割と噛み砕くタイプの訳者である。原文の風味は消えるかもしれない。原文と一緒に読むには、これ以上ないパートナーである。