本の覚書

本と語学のはなし

ウルガタとルター【ヘブライ語/ギリシャ語/ラテン語/ドイツ語】

Biblia Sacra Vulgata

Biblia Sacra Vulgata

Die Bibel. Lutherbibel. Schwarze Standardausgabe 1984. Mit Apokryphen

Die Bibel. Lutherbibel. Schwarze Standardausgabe 1984. Mit Apokryphen

 とは言え、アウグスティヌスミヒャエル・エンデもやめてしまうかもしれない。
 そんな場合の最後の手段として、聖書の原典講読の際に、ラテン語訳とドイツ語訳を参照するのはどうだろう。『告白』と『モモ』を読みながら、しばらく同時にウルガタ訳とルター訳(何度も改訂を経た現代語訳である)も試してみることにした。

旧約聖書

Biblia Hebraica Stuttgartensia

Biblia Hebraica Stuttgartensia

 創世記16章6節の後半。日本語は新共同訳。

וַתְּעַנֶּהָ שָֹרַי וַתִּבְרַח מִפָּנֶיהָ

adfligente igitur eam Sarai fugam iniit

Als nun Sarai demütigen wollte, floh sie von ihr.

サライは彼女につらく当たったので、彼女はサライのもとから逃げた。

 ラテン語は Sarai が不変化なので分かりにくいかもしれないが、奪格の構文。主文は fugam iniit で、主語は奪格構文の中で目的語であった彼女、すなわちサライの女奴隷ハガイである。
 ドイツ語がわざわざ wollte という助動詞を補っているのは、護教的な意図からであろうか。サライはハガルを虐待しようと意志した、あるいは虐待しようとするところであったということであって、実際にはそうするまでには至らなかった、という風に読める。
 欧米の聖書翻訳に間違いはないなどと考えるのは、大きな間違いである。しばしばそれは確信犯的な誤訳であるだけに、厄介である。


 それにしても、聖書ヘブライ語の入力は面倒くさい。

新約聖書

Novum Testamentum Graece: Nestle Aland 28th Revised Ed. of the Greek New Testament, Standard Edition

Novum Testamentum Graece: Nestle Aland 28th Revised Ed. of the Greek New Testament, Standard Edition

 ちょっと前に読んだところであるが、一コリント9章23節。日本語は新共同訳。

πάντα δὲ ποιῶ διὰ τὸ εὐαγγέλιον, ἵνα συγκοινωνὸς αὐτοῦ γένωμαι.

omnia autem facio propter evangelium
ut particeps eius efficar

Alles aber tue ich um Evangeliums willen, um an ihm teilzuhaben.

福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。

 ここで問題となるのはシュンコイノーノス、すなわち「共同者」をどう訳すかということであるが、ラテン語は直訳。ドイツ語は「参与する」という動詞に訳す。どのみち曖昧ではあるけど、新共同訳になると、疑いようもなく、皆と一緒に福音の分け前にあずかるという意味になる。
 だが、と田川建三は言う。

この「共に」という接頭語 (syn) はここではそういう意味ではなく、私が福音と共になる、ないし福音の側の存在となる、という意味である。(中略)この語 (koinōnos) は、自分もそちら側(福音の側)の仲間になる、という意味。この語に「あずかる者」「享受する者」といった意味はない。(訳と註 p.320)

 つまり、新共同訳をはじめとする多くの日本語訳は、まるで原文と反対のことを言っているというのである。田川がパウロ嫌いであるのは確かだが、ここでは田川の言う通り、パウロが福音のパートナーになろうとしていると読む方がよさそうに思われる。


 ギリシャ語の入力は楽しい。
 ラテン語訳やドイツ語訳を一緒に読むのは、いずれ飽きそう。

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