本の覚書

本と語学のはなし

イエス/H. カーペンター

 コンパクト評伝シリーズの一冊。その名の通りコンパクトな評伝だが、史的イエスについてのなかなか優れた入門書である。
 著者は聖書学や神学ではなく、中世英文学の専門家である。しかし、C. S. ルイス(児童文学のみならず、キリスト教関係の著作でも有名)の研究者でもあるというから、ただの素人ではない。


 キリスト教というのは、イエスの死と復活に関する宗教であって、イエスの教えを信奉する宗教ではない。
 イエス自身が自分の死を人類の贖罪と救済のためと考えていたか否かは不明である。というより、全く意味不明の死であると考えていたに違いないと推測する人は多い。
 著者は、しかし、何か神の要求を満たすものであると信じてはいただろうと言う。

おそらく、イエスは、死ぬことによって――特に犯罪者として死ぬことによって――常に宣教活動の特色となっていた、社会的疎外者たちの中に進んで身を置くということを、その最大の限度にまで実現したいという思いを持ったであろう。(p.181)

 復活とは何か。これはよく分からない。単に弟子たちの精神的体験とするのも、神話的な類型を当てはめたとするのも、無理があるようである。ひとつ興味深いことがある。

エスが死後の日曜日に死人の中より復活したと初代教会が説き始めた当時、旧約聖書にそのようなことが起こるという預言が実際にあると説くのに困難を感じていたようである。(p.184)

 キリストは旧約の預言の通りやって来た。そして預言されていた通りに生き、そして死んだ。そうキリスト者らは考えた。しかし、どうしてもそれだけでは説明しきれない部分が残った。旧約の言葉をいくら探してみても、メシアの復活に到達できるような文言は見つからないのだ。
 預言によって裏付けられない復活に、なぜ彼らはこだわったのか。むしろこの破れにこそ、キリスト教発生に関する根源的な何かが存するのではないかと私は思う。
 著者は明確に答えを出してはいない。仮にイエスは死んでいないという信念から生まれた信仰だとするにしても、イエスの人格への大きな尊敬が働いていたことを見逃してはならないと言うに留めている。