本の覚書

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七十人訳聖書入門/土岐健治

七十人訳聖書入門

七十人訳聖書入門

 知っていることは全て書かなくては気が済まない性分のようで、ごちゃごちゃしたとりとめのない印象の本になっている。
 たとえばこんな感じ。

 アレクサンドリアには「ギュムナシオン」(「裸」の意のギュムノスに由来。男子が裸で体操をしたことによるか? 英語の gymnasium →日本語「ジム」、ドイツ語の Gymnasium の語源)とは別に、「ムーサイオン」(守護神である学芸の女神ムーサイ=九柱のムーサたち [music の語源] を祀る聖域としての意味を持つ学術研究機関。英語 museum =日本語「ミュージアム」の語源)が造られ(前記のアテナイのリュケイオンにもムーサイオンがあったとする資料もある)、図書館はこの学術研究組織と関連提携した付属施設であったものと考えられている。そしてそこに集う文人たちはシュンポシオン(酒宴、饗宴。「共に」「飲む」の意。最後の晩餐→聖餐式を参照)の席で文字通り「一緒に(ワインを)飲み」ながら、ソクラテスも同席していたプラトンの『シュンポシオン』(饗宴)に見られるような知的討論対話を繰り広げたのである。(p.77)

 括弧が多すぎて、何が言いたいのだか分からなくなってくる。衒学趣味なのか、書くことがなくて水増しが必要だったのか、こういうことこそ学問の楽しみの最たるものであると示したかったのか。
 しかし、古典語にある程度親しんでいる人にとっては別に指摘されるまでもないことが多いし、そういう知識のない人はそもそも相手にしてないようでもあるので、いったい何のためにこんな労を取っているのか、不思議である。


 七十人訳聖書というのは、紀元前三世紀頃からエジプトのアレクサンドリアで翻訳されたギリシャ語の旧約聖書である。キリスト教世界では、旧約聖書と言えば専ら七十人訳を指していたこともあった。新約聖書に見出される旧約の引用も、七十人訳からであることが多い。ユダヤ教が二世紀になってギリシャ語の新訳を作ったのは、七十人訳キリスト教徒のものになり果ててしまったためであるらしい。
 問題は、現行のヘブライ語聖書、いわゆるマソラ本文と七十人訳を比較すると、しばしば違いが見られることである。誤訳もあれば意訳や解釈もあるだろうが、それだけではない。七十人訳の方が本文の古い形態を伝えている可能性のある部分も存在するということが、死海写本との比較で明らかになってきた。「LXX 〔七十人訳〕の底本(ヘブル語原典)の実態は不明である(実物は存在しない)という大前提を常に心に留めねばならない」(p.113)。


 土岐健治は七十人訳の特徴を示す言葉として、ディアスポラ(離散)とユニバーサリズム(普遍主義)を挙げている。おそらくキリスト教もこれを受け継いだのであり、今もまた受け継ぐべきものであるのだろう。

アルタパノスやアリストブーロスは、モーセと彼が記したとみなされていたモーセ五書こそが、ギリシア哲学の源泉であったと主張しているわけで、それは裏返せば、LXX モーセ五書(ないしは、確認されてはいないけれども、ほのめかされている LXX に先行するギリシア語モーセ五書)がプラトンを中心とするギリシア哲学の影響を受けていたことを示唆している。(p.191)

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