本の覚書

本と語学のはなし

カトリックの信仰/岩下壮一

 1000ページ近くもある本(しかも文章がやたらと古臭い)をやっとこさ読み終えた。
 第二バチカン公会議の前の著作であり、遠慮なくプロテスタント批判をしているので、気分を悪くする人もあるだろうけど(プロテスタントであるとカトリックであるとを問わず)、それだけに却って今では見えづらくなっている部分も含めて、両者の違いが鮮明に分かる。どちらの側の人であろうと、余裕があるならば一読しておくと勉強になるのではないかと思う。
 ただし、彼の批判するプロテスタントというのは、自由主義神学の内でも事実認定よりプロテスタト的理念を優先する似非歴史学、似非文献学を事とする人たちのことであり、その成果を自ら弁別する能力もないままに都合の良いところを継ぎはぎして武具を作って得意になる我が邦の無教会主義者たちのことである。今となってみれば、岩下の聖書学も時代を感じさせるものでとても支持できはしないが、神学が結論を先取りするような学問的態度は新旧両陣営に今でもあることだろうから、お互いに反省しつつ読まなくてはならないところである。


 解説の中で稲垣良典は言う。

 岩下は或る時期、自ら「心ひそかに誇りとしていた近世哲学的教養」「現代人の誇りなる全近世哲学」が、実は意識の主観性(それは自我中心主義 egocentricism あるいは主意主義 voluntarism といいかえることができる)の牢獄に人間精神を閉じこめる営為であり、そしてそのことは、実は近世哲学が自らを宗教ないしキリスト教から「解放」しようとした試みの帰結であることを学んだ。この洞察が、かれにとっての哲学的開眼であり、そこから彼の思想家としての歩みが始まる。(p.959-60)

 宗教からの解放というのは、田川建三の『キリスト教思想への招待』にも出てきた考えであり、当然ながら肯定的にとらえられていた訳であるが、岩下壮一にとってそれは形而上学的なものへの通路を失うこととして、損失とみなされたのであった。
 岩下にとってプロテスタンティズムとは主観性への孤立であり、カトリシズムとは客観的真理へと至る道であったのである。

新版

カトリックの信仰 (ちくま学芸文庫)

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