- 作者:森 鴎外
- 発売日: 1999/11/25
- メディア: 単行本
また参考資料の中に、「山椒大夫」や「栗山大膳」に言及した随筆「歴史其儘と歴史離れ」も含まれている。鷗外の言う歴史そのままとは、歴史家として歴史の実相を探求するものというより、複数の資料を勘案しつつも、主たる資料からなるべくはみ出さない執筆態度のことのようであるけど、時にそのいわゆる歴史から離れてみたくなる時もある。それが「山椒大夫」であるという。
しかし、歴史を尊重しようがしまいが、創作者としての自由はいつでも確保されていたようで、殊にその筆は女性に凛とした主体性を付与する方向に向かおうとする癖がある。「じいさんばあさん」のるんや「最後の一句」のいちは典型である。それが鷗外の好みであったのだろう。
何やら分からないタイトルのものを簡単に解説しておく。
魚玄機は唐の時代の女流詩人である。眉目端正な彼女が、決して美しくはないが媚態を有する下女を、嫉妬から殺して埋めてしまうのである。
椙原品は伊達綱宗(伊達政宗の孫)の側室である。「此初子が嫡男まで生んでゐる所へ、側から入つて来た品が、綱宗の寵を得たには、両性問題は容易く理を以て推すべからざるものだとは云ひながら、品の人物に何か特別なアトラクシヨンがなくては愜はぬやうである。それゆゑ私は、単に品が高尾〔吉原の遊女。綱宗に愛せられ仙台に連れて行かれた彼女の後裔が椙原を名乗ったという説があった〕でないと云ふ事実、即ち疾うの昔に大槻さんが遺憾なく立証してゐる事実を、再び書いて世間に出さうと云ふためばかりでなく、椙原品といふ女を一の問題としてこゝに提供したのである」。
鷗外枠
果たして鷗外に拘ったものだろうかと常に考えながら読んでいる。鷗外枠を無くしてもいいのではないか。鷗外の代わりに主として文化芸術面のキリスト教書籍を一冊追加するか。既存のキリスト教枠を鷗外を減じた分だけ拡充するか。
もしキリスト教以外のものに触れる機会を尊ぶにしても、文学作品全般を相手にする枠にしてもいいし、フローベールとかドストエフスキーとかメルヴィルとかいつか再読したかったものをまた手に取る枠にしてもいいし(ただし、一日15ページ程度の読書で長編作家に挑むのは辛いので、鷗外枠では無理かもしれない)、今は気乗りしないが道元を学ぶ枠であってもいい。
とこう逡巡しながら、史伝は一度は読まなくてはいけないような気がする。それで結局は「鷗外歴史文学集」と「鷗外近代小説集」を時々萎えながらも最後まで通すことになりそうなのである。日記とか翻訳まで一々チェックして、ちょっとした鷗外通になろうとまでは考えてないけど。