本の覚書

本と語学のはなし

わたしには、すべてのことが許されている【ギリシャ語】

 コリントの信徒への手紙一6章12節。

Πάντα μοι ἔξεστιν ἀλλ’ οὐ πάντα συμφέρει· πάντα μοι ἔξεστιν ἀλλ’ οὐκ ἐγὼ ἐξουσιασθήσομαι ὑπό τινος.


 新共同訳と鍵括弧で囲まれた部分に対する『新共同訳 新約聖書略解』の注釈。

「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。

《すべてのことが許されている》という句が二度出てくる。この句は自由についての一般原則ないしは古代の哲学的定義(エピクテートスⅣ.1.1)に基づくのか、またはポルネイア〔淫行〕の自由を含めたコリントの論敵の主張なのかが論じられているが、本書の問題状況からは論敵の主張と解される。これに対してパウロは《しかし、すべてのことが益になるわけではない》と《しかし、わたしは何事にも支配されはしない》という句を付加することによって論敵の主張を修正する。彼らがこのように主張した自由は、文脈からは淫行と、また偶像に供えられた肉を食する自由を意味していたものと解される。しかし、彼らはこの自由によって実は自己と他者の交わりのためには何ら《益になる》ことなく、むしろ他者を躓かせ、争い合って、肉の欲に「支配されている」というのがパウロの批判なのである。


 岩波訳(青野太潮)と鍵括弧で囲まれた部分に対する注釈。

「すべてのことが私にはゆるされている」。しかし、すべてのことが益になるわけではない。「すべてのことが私にはゆるされている」。しかしこの私は、なにごとによっても支配されることはないであろう。

パウロの論敵であるコリントの霊的熱狂主義者たちの言葉の引用だろう。


 田川建三訳と上の二つの訳に関する注釈。

何でも私に許されている。しかし何でも役に立つというわけではない。何でも私に許されている。しかし私が何かの権威のもとに服することはない。

二度くり返されるこの文を引用符に入れている訳がある(新共同訳、岩波訳)。これは翻訳者の態度としてひどく間違っている。彼らがこれをどうして引用符に入れたかというと、パウロが自分の意見としてそういうことを言うはずがなく、これは「反対者」の意見の引用であるはずだ、というのである。岩波訳などわざわざ註を入れて、「パウロの論敵であるコリントの霊的熱狂主義者たちの言葉の引用だろう」なんぞとしている。こんな根拠のない憶測を当然のように言い張るのは許されない。コリントスの教会にパウロの「論敵」なるものが存在したかどうかは別として(コリントスの信者たちがパウロをひどく批判していたのは事実である。しかしそれをパウロの「敵」呼ばわりするのは妥当ではない)、彼らが、「霊的熱狂主義者」だ、などというのは現代の神学者が創作した作り話にすぎない。それにどのみちこの個所では、パウロ自身、この文が他人のせりふの引用だなどということは露ほども示唆していない。訳文中に引用符を入れて、著者自身の言葉でないかのように見せかけるのは、著者が自分でこれは引用だよとはっきり示唆している場合を除き、決してやってはいけない。註に書くのならともかく、訳文でそれをやったら改竄というものである。解釈は読者におまかせするのがよい。
パウロの文にあちこち引用符を入れて、これはパウロ自身の文ではありません、と見せかける手法は、二十世紀半ばぐらいから特にドイツ語系の神学者の一部で流行りだしたもので、それがあちこちの亜流にまで伝染したものである。これは現代的パウロ護教論の汚い手法であって、パウロの文章の中に自分たち現代のキリスト教護教論者にとって都合の悪いものが出て来ると、それをいちいち引用符でくるんで、これはパウロ大先生の御意見ではございません、大先生はこういう意見を退けておいでなのです、と宣言するものである。見え透いたちゃちな手法であって、何の根拠もないのだが、けっこう流行っているから、要注意。


 鍵括弧で囲んでいる訳は他にもあって、私が持っているものの中では、塚本虎二訳、柳生直行訳、共同訳、そしてフランシスコ会訳がそうである。バルバロ訳は引用符こそ付けていないが、解釈を入れ込んで訳している(「私なら何をしてもよいと言う人があるかもしれぬ」)。カトリックプロテスタントも関係ないようである。

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