だが、そうではないようである。古代の本だから伝承の過程で毀損が生じ、解釈上の問題が生じるところもあるが、この本の難解さの本質的な部分は、どうやら作者による意図的な仕掛けのようなのだ。成立年代も恐らくは捕囚期からヘレニズム期の間だろうとされているわけで、当時の知識人が蒙昧の人であったなどということは、実際考えにくい。
神の超越と神義論と摂理と悪と。我々はこうした哲学的な問題に立ち入るよう招かれている。
箴言は時に、善人は栄え、悪人は滅びるといった単純な因果応報を説いているようにも見えるが、必ずしもそうとは限らないようである。
義人の善なる行為はゆっくり時間をかけながらも周りに影響の波を及ぼし、共同体における互恵的な応答関係を形成する。そのようなものとして、例えば「播き散らして、なお増し加える者がいるが、過度にもの惜しみをして、かえって欠乏する者もいる。祝福する魂は、肥え太る。潤す者は、また彼も潤される」(2 :24-25)といった言葉を受け取る必要がある、という。