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キリスト教思想史入門/金子晴勇

キリスト教思想史入門

キリスト教思想史入門

 キリスト教思想史というのは「哲学や文学との関連においてキリスト教の思想的発展を叙述することを課題としているのであって、教会の歴史や教義の歴史だけを扱うのであってはならない」(p.9)とある通り、時にカントやヘーゲル、時にドストエフスキーなどにも言及しつつ、2000年に及ぶキリスト教思想の歴史を振り返る。
 三本の柱として、アウグスティヌス、ルター、キルケゴールが据えられている。著者自身の専門だということもあるが、実際にも彼らは時代を大きく画したのであって、そこから前後に辿ることで思想の歩みは明瞭に跡付けられることになりそうである。


 私はもうずいぶん前にカトリックで洗礼を受けたが、今となってはカトリックなのかプロテスタントなのか無神論者なのかも自分で分からない。
 だから、自由意志と恩恵の問題、啓示と自然神学の問題、ルターとカルヴァンの違い、そして実存と他者の問題などが、差し当たって私にとって興味のある話題であった。


 キリスト教は世俗化し、その信仰はほとんど解体されるに至った。しかし、世俗化の方向性自体は宗教改革の必然である。プロテスタントの可能性はどこにあるだろうか。

私たちは「聖なるもの」の経験と事実から出発しなければならない。そしてこの聖なるものを世俗から分離した中世風の修道院の中に確立するべきではなく、世俗社会の中にあってそれを根底から支えるものとして再建しなければならない。近代的自我は自らの育ての親たる信仰を失い、世俗主義化したため、もはや聖性の担い手たりえない。近代的自我が自己を中心に歩んだ道から転じて、他者との間柄に生きる主体が信仰により育成されてはじめて聖なるものの担い手となりうるであろう。(p.255)


 しかし、この他者との関係ということは、単にプロテスタントの問題ではないし、カトリックでも失われつつあるのだなどという次元の問題でもなく、現代において先鋭に突きつけられてはいるけど、実は優れて存在論的な問題であるはずである。
 レヴィナスハイデガーを読み直してみようかなと思った。今更読めるものか知らないけど。