本の覚書

本と語学のはなし

新約聖書Ⅴ パウロの名による書簡・公同書簡・ヨハネの黙示録/新約聖書翻訳委員会訳

 パウロの名による書簡とは、パウロを名乗ってはいるもののパウロ自身によるものとは見做されない書簡のことで、もちろん全ての学者が一致して認めているわけではないが、コロサイ人への手紙、エフェソ人への手紙、テサロニケ人への第二の手紙、テモテへの第一の手紙、テモテへの第二の手紙、そしてテトスへの手紙を指す。
 思想的に言うと、パウロの信仰義認とは、律法の完璧な実践は不可能であるという事実判断に基づくもので、それは律法主義の否定ではあっても、律法の否定までを含むものではない。しかし第二パウロになると、律法そのものの聖性が否定されるようになる。パウロが弱さの中に獲得した強みは、次の世代にとって当然の出発点となり、そこには単に強さしかない、ということらしい。


 公同書簡は、通常の用語法ではヤコブの手紙からユダの手紙までの七書簡を指す。しかし、この本ではヘブル人への手紙を加え、ヨハネの手紙三つを引いている。ヨハネの手紙は関係の深いヨハネ福音書と合わせて、第三分冊に収められている。
 カトリック的なものの誕生について考えるために。


 ヨハネの黙示録はイメージとしては分からなくはないけど、正直なところ、書かれたことが正確に何を象徴しているのか、いつもあやふやなまま読み進めてしまう。
 学生時代に通った教会の神父さんも分からないと言っていたし、それは学者も同じことだろうけど、いずれ詳しい注解書を読んでみたい。

本の整理

 暖かくなってきたので部屋の掃除をすることにしたが、その前に本の整理に本格的に取り掛かってしまった。大分たくさん売ることにした。
 精神的の活動がミニマムである時期にこんなことをしたら、必要なものまで手放してしまいそうなので、段ボールに詰める前にもう一度見直して幾分救済する。
 クラシックのCDやオペラのDVDはもう視聴しないものも多々ありそうで、大量に売り捌きそうになったが、今回の所はぐっと堪えた。


 今後はきっとキリスト教一辺倒ではなくなって、少しばかり文学を顧みることがあるに違いない。