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本の覚書

本と語学のはなし

新約聖書Ⅳ パウロ書簡/新約聖書翻訳委員会訳

新約聖書〈4〉パウロ書簡

新約聖書〈4〉パウロ書簡

 パウロ書簡である。しかし、新約聖書にパウロの名が付けられた書簡は13通あるが、ここに収録されているのは7通のみ。つまり残り6通は偽名書簡であると今では考えられているのだ。
 では、パウロ真筆とされているものはどれかと言うと、ローマ人への手紙、コリント人への第一の手紙、コリント人への第二の手紙、ガラテヤ人への手紙、フィリピ人への手紙、テサロニケ人への第一の手紙、フィレモンへの手紙、以上である。

 訳者は青野太潮。先日読んだ『どう読むか聖書』の著者である。聖書は批判的に読め(非難する、否定するという意味ではない)というモットーのもと、十字架の贖罪論的解釈を退け、弱きに宿る力と言うものを追及する人である。そして、その神学を読み込むような形で翻訳もなされる。ちょっと行きすぎかなという気もする。
 だいたい、カトリックにマリア崇敬が付き物であるように、プロテスタントにはパウロ崇敬をこじらせる例が多くあるようだ。一つには、福音主義的に一字一句をすべて霊感によるものと認め、したがって偽名書簡など誤った学説であるとして、矛盾をそのまま受け入れるという信仰もある。一つには、自由主義的に非合理なものを排除して行く過程で、第一にパウロの真筆とそうでないものを区分し、次にパウロの真筆の中の不都合な部分を、異読の支持を得られない場合にすら後の挿入であると推定したり、論敵などの引用であるとして、パウロの真意から切り離し、理想のパウロ像を作り上げるという信仰もある。
 私はもともとパウロ主義者ではない上に、最近はパウロ嫌いの田川の注釈を読んでいるせいで、素直に青野の訳や注を読めないことが多い。彼の神学自体は嫌いではないが、それは翻訳でやることではないだろうと思うのだ。

真筆書簡中の挿入とされる例

 第一コリントの33節bから35節に、女性は教会において黙りなさいという趣旨の言葉が見える。青野はこれを後の挿入であると考える。その理由はいろいろ挙げられているが、本心はやはりパウロがそんなことを言うはずがないという願望であろう。
 しかし、この部分を排除したとしても、パウロが別にフェミニストになるわけではなく、当時の人間としてごく普通に、現代人の価値観には合致しない価値観を持っていたことは争えないだろう。

真筆書簡の分割案

 第二コリントとフィリピは複数の手紙を合体させたものだという説がかなりの蓋然性を持っているそうで、この本ではそれに従って、手紙を分割している。特に前者は全体を6つに分け、それを5つの手紙に仕立て直し、配列を変えて提示しているため、通常の聖書とはだいぶ異なる様相を呈している。
 こういう本もあれば確かに便利であるとは思うけど、これは聖書の翻訳と言うよりも、学術的な注解本の類だなと思う。

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