本の覚書

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旧約聖書XI 詩篇/旧約聖書翻訳委員会訳

旧約聖書〈11〉詩篇

旧約聖書〈11〉詩篇

 福音書はこんなイエスの言葉を伝えている。

エスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。
『主は、わたしの主にお告げになった。
「わたしの右の座に着きなさい。
わたしがあなたの敵を
  あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』
このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。(マルコ12:35-37)

 イエスが引用しているのは詩篇110篇1節であり、この詩を詠んだのはダビデであると理解されている。そしてそれが、当たり前のように受け入れられている。このように、詩篇の作者は(少なくとも110篇のように「ダビデの詩」とあるものは)、伝統的にダビデであると考えられてきた。
 しかし、今では普通そうは考えられていない(そうと信じる人は相当数いるだろうけど)。第一、「ダビデの」の「の」と訳されている前置詞も、岩波版訳者の松田伊作によれば、おそらくは記者の意図においても、「ダビデの作」を必ずしも意味するものではないだろうという。同じ前置詞を使った「コラハの子らの」の「の」が作者を意味するものではありえないからである。
 では誰が詩篇を書いたのか。

……「詩篇」はその中の各詩が内容的に補い合いつつそれ自身で完結し全体として一つの整った思想を述べた書物なのではない。たぶん意図的な匿名化のゆえに今では一人としてその名を知ることのできない作者たちが様々な機会に詠んで神殿または会堂に奉納した詩が、書写生によって清書され、多くの信徒の利用に適するように、そこの責任者らによる類型化のための修正や削除や加筆を受け、題詞を付けて分類され、各詩集として編纂された、と推定されるのである。(解説p.436)

 年代についてはっきりわかるような詩は一つもないものの、いくつかの詩の原形は王国時代にまで遡りうるが、多くはエルサレム神殿が再建された前515年以降、祭儀や典礼に用いるために造られたもののようであり、最も新しいものは前4-2世紀に属するという(旧約の年代推定というのは、これほどに幅のあるものである)。


 面白い指摘であるが、詩篇には死者を悼む挽歌は一篇もないという。参照詩篇の注記は省略して、本文のみを引用してみる。

天国すなわち神の王国は死の彼方にあるのではなくて、この「生ける者らの地」においてこそ神は王なのであり、神が人に与える最大の祝福はこの地上における満ち足りた長き日々なのである。そういった日々を生きて、神の業を伝え、神を讃えることこそ、詩人たちの願いだったのである。(解説p.445)


 松田の訳は必ずしも読みやすいとは言えない。それは原文を日本語を通して浮かび上がらせ、どこにテクストとしての問題があるのかを明らかにするためであった。

ある言語学者によれば、テクストはまず文法的、意味的に首尾一貫した文の列でなければならない。この説に従えば、少なくとも訳者のヘブライ語の知識に基づく限り、詩篇の一篇を一つのテクストと見なし得る例は数えるほどしかない。(解説p.446)

 決して引っ掛かりのない、流麗で意味の通る訳文を作ることが目的ではないのである。