本の覚書

本と語学のはなし

われらの時代・男だけの世界 ―ヘミングウェイ全短編1―/ヘミングウェイ

 ヘミングウェイ初期の短編。少年時代のこと、第一次世界大戦での負傷、ハドリーとの結婚と子供の誕生、パリでの生活、ハドリーとの離婚とポーリン・ファイファーとの再婚。そういう背景を少し知った上で読んだ方が面白いかもしれず、その意味で解説を先に読んだ方がいいのかもしれない。
 私は釣りも狩猟も戦争もボクシングもスキーも闘牛も全然好きではないので、それを知った上で読んでも、それほど面白がりはしなかったかもしれないが。
 私が好きなのは「追い抜きレース」。薬のせいらしいけど、ある日シーツを愛することを知った男の話である。


 休日2日を利用して、本棚の整理をした。当初は大量に売ることも考えていた。もう若くはないので、決して読まないだろうし、参照することもないだろうという本はだいたい見極めがつく。
 とは言え、まるで枯れてしまったわけでもなく、頭脳が完全に退化しきったわけでもないから、今年突然短歌や小説を作ってみたくなったような衝動がまた生じないとも限らないし、哲学のような訳の分からないものをゆっくり繰り返し読むことで本代の節約を図ろうとしないとも限らない。結局、ほぼ本の移し替えをするだけで満足することにした。
 後景に退いたのは文学と古文。詩や短歌、漢詩などは売らないことにしたけど、本棚が一杯になれば、哲学と並んで一番のリストラ候補である。一時期力を入れていたこともあるスピノザモンテーニュフローベール道元、鴎外などは、たぶんもう主役になることはない。
 前景に押し出されたのはキリスト教。どうして信じてもいないキリスト教にそれほど入れ込むのか、自分でも不思議に思うのだが、基本文書が聖書であってその分量が適度であること、英独仏羅希という昔から勉強してきた言語が一つも無駄にならず有効に使えること、一時期興味を持っていた文献学の真似事ができること、というのが主な理由だろうか。要するに、学問ごっこができるということである。しかも、限界を感じたら(限界はすぐそこにあるのだが)、最終的には信仰に至る逃げ道も用意されている。


 聖書には信じる人があり、信じない人があり、信じる人にもまるで異なる信じ方があり、戦争があり、愛がある。多様な相を眺めるだけでも、一つの生涯だけでは到底足りないようだ。
 私は自分の専門を決めきれず、とうとう何者にもならぬまま、日没を迎えようとしているのだが、最後は「ごっこ」のレベルでもいいから、何か専一に取り組むものを必要としたのかもしれない。