本の覚書

本と語学のはなし

意味不明【ギリシャ語】

ὁ δὲ μεσίτης ἑνὸς οὐκ ἔστιν, ὁ δὲ θεὸς εἷς ἐστιν.

仲介者は一者のものではないけれども、神は一者である。(ガラ3 :20)

 田川建三訳。これが直訳である。
 ところが、新共同訳はまるで異なる我が道をゆく。前後の節も合わせて引用してみる。

3 :19 では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。
3 :20 仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです。
3 :21 それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。
3 :22 しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。

 確かに文脈の中に置いた時、田川の直訳では何のことか分からないかもしれない。だが、これはあまりに解釈を入れ込みすぎではないだろうか。
 これだから新共同訳はちょっと使いづらい。これをメインとしながらも、口語訳なり文語訳なりにも親しんでおく必要がありそうだ。


 田川の解説。

何を言っているのか、よくわからないので有名な個所。冗談まじりではあるが、この個所には四百もの異なった解釈がある、などと言われる。冗談は別としても、パウロは時々一人よがりの論理を奇妙にひねくって、おまけにそれをていねいに説明せずに、ひどく言葉を省略して思わせぶりに短く言うくせがある。従って、本来が悪文であるのだから、これはどういう意味か、などと議論してもはじまらないが、一応、代表的な解釈は二つある。一つは、天使は大勢なのだから(それでパウロは前節で意図的に天使を複数形にした)、仲介者は複数である。*1つまり、律法というのは絶対的なものではなく、いろいろあるさ、ということ。もう一つの解釈は、仲介者というのはあっち側とこっち側を仲介するのだから、一方だけに依存しているわけではない、という解釈。もしも後者の解釈が正しいのならば、新共同訳の思い切った作文(こうなると訳とは言えない。勝手な作文)「仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです」は、なかなか良い解説だということになる。しかし、前者の方が支持者が多いし(やはりパウロがわざわざ複数形の天使を強調したのは、その意図があったからだろう)、ほかにもいろいろ解釈があるところだから、こんなところは、通じようと通じまいと、直訳しないといけない。通じないのはパウロが悪いんだから。(訳と註3 p.186-187)


 以下、文語訳、口語訳、新改訳を引用しておく。

(中保は一方のみの者にあらず、然れど神は唯一に在せり)

仲介者なるものは、一方だけに属する者ではない。しかし、神はひとりである。

仲介者は一方だけに属するものではありません。しかし約束を賜わる神は唯一者です。

 いずれも解釈としては新共同訳側にあるようだが、小説ならいざ知らず、聖書の翻訳としてはこの程度に留めておいてほしい。


新約聖書 訳と註〈3〉パウロ書簡(その1)

新約聖書 訳と註〈3〉パウロ書簡(その1)

*1:ただし、前節の仲介者はモーセのことであろうと田川は言う。