本の覚書

本と語学のはなし

ポールとピーターと辞典たち【購入】

 佐竹明のパウロ。新装版が出ているが、古いのを廉価で入手する。
 今日のキリスト教神学の基礎は、ほとんどパウロに由来する。それはプロテスタントにとってだけでなくて、カトリックにとっても同じことである。


 古本で買ったこの本の表紙を開くと、遊び紙のところに鉛筆でびっしりと書き込みがしてある。「イエズス・キリスト」という表記からして、前の持ち主はきっとカトリックであったのだろう。
 意味不明と言えば意味不明だし、パウロにもカトリックにも関係はなさそうな言葉ではあるが、せっかくなので活字に起こしてみる。表現、表記に疑問のあるところも、修正は加えなかった。ただ、句点か読点か判別のできないところは適当に判断し、「イエズス・キリスト」の中黒点が欠けている場合も全て付けておいた。

この上もなく弱いイエズス・キリスト。それは自分の憐れさを知って居られたからです。神は、全てをイエズス・キリストに全知全能をまかし、与えつくされたからですが、我々からその事は、全く理解出来ない事でした。何故ならば、それは、目にも見えず、言葉にも表されない事であったからです。それは、静かに、誰も気付かない間に、深く、イエズス・キリストが受け応えされ、誰にも気付かない間に、そっと、受け入れられたからでしょう。聖霊の働きが、神からの働きを静かに、大きく受け入れられたからです。だからこそ神からの全てを受け入れられた事が出来られた(?)事によって神の子となられたと我々は思い感じて、その栄光を喜んでいるのです。全てのことが、成就されるだろうことは、つまり神の働きが、イエズス・キリストを通じて、私達に伝えられることは、当然の事でしょうが、そのことを受け入れ得る(ウツワ)心を持って、イエズス・キリストを受け入れなければ、神の意向、神の啓示、神の全ての心を感じることは出来ないでしょう。私達は何を望み、何を持って生きているのでしょうか。神の全能をつたえられて、いやむしろ神自身を表されたイエズス・キリストを見て、その行い、言葉を理解し、その事の全てを受け入れ、その全てを、イエズス・キリストに倣って行くことそこ、私の生きる道なのです。 1981.11.24


パウロとペテロ (講談社選書メチエ)

パウロとペテロ (講談社選書メチエ)

 ペトロというのは意外と謎の男である。
 イエスの生前から弟子の中で筆頭格であったのは確かなようであるが、イエスの受難に際しては三度イエスを否認した。
 復活したイエスの墓を最初にのぞいたのはペトロであると報告しているのはルカとヨハネだけである。
 エルサレム教会で最初指導的立場に立ち、サマリアから異邦の地にまで伝道旅行もしていたらしい。「私たちには主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか」(1コリ9:5)とパウロが言っているところからすると、結婚もしていたようだ。アンティオキアで異邦人と食事を共にしなくなった行動がパウロを怒らせたことも、パウロ自身の報告(ガラ2:11-14)によって我々は知っている。
 しかし、エルサレム会議以降のことはよく分からない。ユダヤ当局による迫害と伝道とに鍵があるようだが、その辺はこの本を読んで確認しよう。
 最後はローマで逆さ十字に掛けられ(イエスと同じ処刑には値しないとして、自ら望んだという)殉教したと伝えられている。カトリックではペトロを初代のローマ司教、すなわちローマ教皇とみなし、現在に至るまでその権威が受け継がれてきていると考える。


聖書辞典―新共同訳聖書

聖書辞典―新共同訳聖書

新共同訳聖書 コンコルダンス―聖書語句索引

新共同訳聖書 コンコルダンス―聖書語句索引

  • 作者: 秋山憲兄
  • 出版社/メーカー: 新教出版社
  • 発売日: 1997/01/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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 どこまで使えるか分からないが、まあ無いよりはましだろう。
 辞典の方は主として固有名詞を調べる。
 コンコルダンスは同じ原語には同じ訳語を当てるのでなければ、正確には使えない気もするが、新共同訳に馴染むほどに使う幅も増えてくるかもしれない。固有名詞を調べるには便利だと思う。今も「ケファ」の項を見て1コリにたどり着いた。

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