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本の覚書

本と語学のはなし

求道者引照つき【購入】

求道者伝道テキスト

求道者伝道テキスト

 アマゾンの紹介文によると、著者が日本基督教団・頌栄教会の牧師をしていたときに、教会に来た求道者を導くために用いたワークブック形式のテキスト。内容はごく初歩的なもの。B5ノートの大きさなので要注意。
 私はカトリックの教義と史的イエス以外のことはあまり知らない。今はプロテスタントのリベラルなところに収まるのが一番よさそうに思うのだけど、それを検証するためにも、キリスト教をめぐる信仰や思惑を、(受け入れがたいものも含めて)広く学んでいきたい。


中型引照つき聖書 新共同訳

中型引照つき聖書 新共同訳

 聖書は引照つきで読みたい。引照というのは、聖書内の関連個所を欄外に表示するものである。
 マタイ福音書27章46節には「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」というイエスの最期の叫びが記されている。その意味は「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。引照つき聖書を見ると、「わが神」のところにアルファベット記号がついていて、下欄の同じアルファベットのところを見ると「詩二二・二」とある。
 詩編22に行く。2節にはこう書いてある。「わたしの神よ、私の神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。/なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか」。
 神学者はこの詩が希望に終わることに安心する。イエスの断末魔の叫びは、決して絶望の淵から発せられたものではないのだ。だからルカが「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)をもって、ヨハネが「成し遂げられた」(ヨハ19:30)をもってイエスの最期の言葉とすることに、何ら矛盾はないのだと考える。その死はまさにキリストの栄光なのである。
 「そんな馬鹿な!」と思うにしろ、「ますますありがたいキリストであることよ」と思うにしろ、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」が詩編22と関連付けられて理解されていることを知らなくては、何も始まらない。
 そもそも、福音書自体が、あるいは原始キリスト教の伝承自体が、これを関連付けて理解していた。同じ詩の中には「わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く」(詩22:19)とあり、マタイには「彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い」(マタ27:35)とある。
 預言の成就であるのか、詩の文言に合わせて伝承が形成されたのかはともかく、この二つの記述の関連に気づくことから、全てはスタートする。これももちろん引照を利用すれば、直ぐに分かることだ。
 帯には佐藤優の推薦の言葉がついている。「イエス・キリストの言葉が、旧約聖書のどの箇所を念頭に置いて語られいるかが、引照によってすぐわかる。神の言葉を深く、立体的に理解するために、引照つき聖書を読む習慣をつけることが不可欠だ」。イエスの言葉だけでなく、新約全体がどのように旧約を利用しているのかを知り、あるいは新約内での呼応、旧約内での呼応を聞き取るためにも、聖書に勝る注釈は聖書以外にない。

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