本の覚書

本と語学のはなし

割礼主義【ギリシャ語】

πρὸ τοῦ γὰρ ἐλθεῖν τινας ἀπὸ Ἰακώβου μετὰ τῶν ἐθνῶν συνήσθιεν· ὅτε δὲ ἦλθον, ὑπέστελλεν καὶ ἀφώριζεν ἑαντὸν φοβούμενος τοὺς ἐκ περιτομῆς.

なぜなら、ケファ*1は、ヤコブ*2のもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。(ガラテヤの信徒への手紙2 :12)


 ブログをあまり書いていない。本を読了した時だけでなく、読んでいる途中でも読書メモを記事にしていい。しばらく語学の話を避けてきている。不親切な内容になるとしても、外国語の本からの引用を復活させていい。信仰心はないながら、その日に読んだ聖書箇所の簡単な考察でもできたら、生活適用などを目指すものではないにしろ、ある種のデボーションにはなるだろう。
 そんなわけで、久しぶりに新約聖書原典の引用である。日本語訳は特に断りがないかぎり、新共同訳を使用していると思っていただいてよい。


 さて、聖書を原典で読んでいると、翻訳ではまったくニュアンスが伝わっていないのではないかと思うことがしばしばある。ニュアンスどころか、語訳らしきところもけっこうある。
 新共同訳が「割礼を受けている者たち」と訳したところ、口語訳は「割礼の者ども」であるが、原文は「割礼からの者たち」であり、田川はそのまま直訳している。田川の解説を引用しておこう。

口語訳は「割礼の者ども」としているが、こういう具合に原文にない軽蔑語を訳でつけ加える悪趣味は別としても、ここの「から」は微妙である。「割礼主義者(ヤコブ等)から派遣された者たち」の意かもしれないし、「割礼に根拠を置く(「から」はそう解せる)者たち」の意かもしれないし……。少なくとも、単なる「の」はよくない。まして新共同訳の「割礼を受けている者たち」は間違い。ここは御本人が割礼を受けているかどうかの問題ではなく(それならパウロだって受けていた)、割礼主義者が問題になっている。(訳と註3, p.165)


 パウロは割礼(circumcision)とは書いているが、割礼を受けた(circumcised)とは書いていない。
 実は、このちょっと前に「それどころか、彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました」(ガラ2 :7)とあるけど、この部分もまた原文は「割礼を受けた人々に対する福音」などとはなっておらず、ただ「割礼の福音」(田川訳)としか書かれていないのである。
 田川は言う。

よく水準の低い解説書で言われているような、ペテロ*3たちはユダヤ人(割礼の者)に、パウロたちは異邦人(無割礼の者)にキリスト教を教えることにしよう、と宣教活動の縄張りを区別して喧嘩を避けた、などという話ではない。ペテロたちは割礼なるものを重視するキリスト教、自分たちはそんなものは無意味だとするキリスト教への道へ向かう、ということである。ただしもう一度言うが、これはパウロがそう思ったということであって、ペテロたちが本当にそうであったかどうかは別問題である。(訳と註3, p.162-163)


 同じく9節に出て来る「彼らは割礼を受けた人々のところに行く」という言葉、これも原文では単に「割礼へと行く」(田川訳)である。ここは異邦人と対置されているから、割礼を守るユダヤ人に向かうのだ考えて差し支えなさそうであるし、実際一般にそう解釈されているのだが、田川を全面的に受け入れるなら、それは割礼主義のキリスト教への道を歩むということであり(結果的にユダヤ人を相手にすることにはなるだろうけど)、相当に皮肉な言葉なのである。


 最後におまけ。
 新改訳は7節と9節ではそれぞれ「割礼を受けた者への福音」「割礼を受けた人々のところへ行く」と訳しているが、12節ではどうしたわけか「割礼派の人々」としたうえで、訳注に「あるいは『割礼者の中の回心*4した人たち』」という解釈を載せている。

*1:ペトロのこと。

*2:ゼベダイの子、使徒ヤコブではなく、イエスの弟のヤコブである。ペトロの背後で、実質的なエルサレム教会の最高指導者として権力を握っていたらしい。

*3:ペトロと同じ。

*4:つまりユダヤ教からキリスト教に改宗したということ。当時明確にユダヤ教から分離したキリスト教というものがあったかどうか知らないが。