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本の覚書

本と語学のはなし

あなたを導く神様の個人レッスン/ウェイン・コデイロ

TheDivineMentorあなたを導く神様の個人レッスン

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 デボーションについて知るために、デボーションをコアバリューに据えるニューホープというハワイ発祥の教団の人の本を読んでみた。
 デボーションというのは、言葉のもともとの意味からすれば捧げるということだろうが、キリスト教用語としては信心とか勤行、祈祷などのことであり、もう少し狭い意味では(あるいは一部のクリスチャンの間では)聖霊に導かれ直接聖書から神の教えを受け取ることを指すようだ。
 コデイロは言う。「祈りの最高の形は、あなたが神に語ることではありません。神があなたに語ることです。ここのところを間違えないようにしてください」(p.242)。これはペンテコステ派の長々語られる異言に対するコメントであるが、一般的な祈りに対しても聖書を読むことの優位は変わらない。
 それがいかなる信念に裏打ちされているかと言えば、聖書は神の霊感によって書かれた唯一の書物であり、誤謬も人間的な編集もそこにはないということである。聖書学的にはおそらくいまどきのカトリックよりはるかに保守的である。


 それでは実際にデボーションとはどうやるものなのか。かなり冗長なこの本を要約して、ニューホープの流儀を紹介してみる。
 用意するのは五つのツール。聖書、筆記用具、ジャーナル、聖書通読表、そして手帳。
 聖書は、新世界訳以外であればどの訳でもいいと言う。訳者は訳注で、日本語訳として新共同訳、新改訳、口語訳、文語訳、リビングバイブル、現代訳を紹介している。ただし、訳文の中では聖書の引用に新改訳を用いているし、日本のニューホープで使っている聖書も新改訳のようだ。信仰の傾向としては当然の選択だろう。
 筆記用具は、ジャーナルを書いたり、手帳にメモしたりするだけでなく、聖書に線を引いたり、日付を入れたりするのにも使う。物質としての紙の本自体が聖なるものなのではない。大切なのは神の言葉自体であるということだ。
 ジャーナルは、神のメッセージを書きとめるのに用いる用紙で、ニューホープで購入することもできるが、普通のノートで代用してもよい。書く内容は、タイトル、みことば、観察、適用、祈り。タイトルは、最後に内容を表すのにふさわしい言葉を見つけて付ける。目次を作る際に、これが見出しとなる。みことばは、その日に読んだ聖句の中から一か所だけを選んで書き抜く。観察は、その聖句をしっかり観察し、神のメッセージを読み取る。適用は、そのメッセージの生活の中への適用を考察する。そのメッセージを受け取ったことで、自分はどう変わるのか。祈りは、シンプルなもので構わない。
 みことば(Scripture)、観察(Observation)、適用(Application)、祈り(Prayer)の頭文字を取って、ニューホープ流のデボーションはS. O. A. P.(ソープ)と呼ばれる。
 聖書通読表は、ネットでもいくらでも入手可能であるが、ニューホープの場合には、グループでも共有できるよう、何月何日にどこを読むか決められた独自の通読表を用いる(少しカトリック的)。年に旧約1回、新約2回読むペース。並行箇所を意識しているのか、やや複雑な内容である。例えば、5月16日に読むのは、「Ⅰ列1/Ⅰ歴28/詩91/Ⅰテサ5」となっている。
 手帳は、デボーションをやっているといろいろ世俗的な用事を思い出すので、それを書き留めるためのもの。書くだけ書いて、あとは神の声に集中する。


 デボーションには心身ともに充実する時間を選ぶ。朝型の人は早朝、夜型ならば深夜で構わない。
 個人で行う場合には40分、グループなら1時間。最初の20分で聖書を読み、次の20分でジャーナルを書く。ここまでは個人でやるのも、グループでやるのも同じ。従って、グループで行う場合にも、最初の40分は静かな個人の時間である。グループの最後の20分は、それぞれが書いたジャーナルの発表となる。


 最後に、コデイロ自身によるジャーナルの例を見てみよう。

         王のつぶやき


●みことば
 すると、この三人は、ペリシテ人の陣営を突き抜けて、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。ダビデはそれを飲もうとはせず、それを注いで主にささげて、言った。「そんなことをするなど、わが神の御前に、絶対にできません。これらのいのちをかけた人たちの血が、私に飲めましょうか。彼らはいのちをかけてこれを運んできたのです」彼は、それを飲もうとはしなかった。三勇士は、このようなことをしたのである。(Ⅰ歴代誌11.18-19)


●観察
 ダビデはこの勇士たちに水を持ってこいと怒鳴りつける必要はなかった。それどころか、命令すらしなかった。彼はただつぶやいただけだった。この人たちが行動を起こすには、王が思いつきをつぶやくだけで十分だった。


●適用
 信仰に根ざしたこのような行動こそ礼拝の手本とするべきであり、その働きの実にふさわしいのは唯一、主だけだ。王の心のつぶやきを聞き取り、それだけで敵の陣地を突破するようなリスクを冒す態度、これよりも優れた礼拝はない。
 今まで何度、神に怒鳴られるのを待っていただろうか。しかし神はそれを喜ばれない。怒鳴られるまで待っているだけなのであれば、信仰はいらない。金づちが振り下ろされるまで動こうとしなかったことが何度もあった。それには喜びなど伴うわけもないが、私は最新の流行ワーシップソングを声の限りに歌い、それを礼拝とうそぶいていた。
 しかし、最高の礼拝というのは王のつぶやきを聞いただけで行動できる心を養うことだ。それよりも大きなことはない。


●祈り
 神様。どうかあなたのみそばに近づき、あなたのつぶやきを聞いて行動に移すことができるようにしてください。                 (p.246)

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