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本の覚書

本と語学のはなし

歎異抄/金子大栄校注

歎異抄 (岩波文庫 青318-2)

歎異抄 (岩波文庫 青318-2)

 親鸞の言葉を実際に聞いた弟子の唯円が、前半で「耳の底に留まるところ」の語録を書き記し、後半で現今親鸞の意図と異なった教えの行われていることを歎いた短い書。
 最近ご無沙汰してはいたが、何度も読んでいるので全て馴染の言葉であった。


 確認したことは、真宗において念仏は決して滅罪とか往生成仏の方便ではないということ。阿弥陀仏の摂取不捨の誓願を信心する一回きりの廻心において既に往生は決定しており、念仏はその感謝であり、あるいはそのような自覚さえなく自然と念仏されるものである。

そのゆへは弥陀の光明にてらせまいらするゆへに、一念発起するとき、金剛の信心をたまはりぬれば、すでに定聚のくらゐにおさめしめたまひて、命終すればもろもろの煩悩悪障を転じて、無生忍をさとらしめたまふなり。この悲願ましまさずば、かかるあさましき罪人、いかでか生死を解脱すべきとおもひて、一生のあひだまうすところの念仏は、みなことごとく如来大悲の恩を報じ、徳を謝すとおもふべきなり。(p.71-72)


 親鸞はたとえ法然に賺されて地獄に落ちるのだとしても、さらさら後悔はない。自力で仏に成れる身であればこそと言うが、そこには鞏固な信心がある。

弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈、虚言したまふべからず、善導の御釈まことならば、法然のおほせそらごとならんや。法然のおほせまことならば、親鸞がまうすむね、またもてむなしかるべからずさふらふ歟。(p.43)

 私は仏教学のことは知らないけど、釈迦の教えと念仏とに直接的な関係はないのかもしれない。しかし、イエスのいないキリスト教は不可能であるけど、釈迦のいない仏教はありうるとすれば、仏に成ることを目指す限り、これも仏教ではあるのかもしれず、しかもその中でもきわめて宗教らしい宗教なのかもしれない。

聖人のおほせには、善悪のふたつ、総じてもて存知せざるなり。そのゆへは、如来の御こゝろによしとおぼしめすほどに、しりとをしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどに、しりとをしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと、まことあることなきに、たゞ念仏のみぞまことにておはしますとこそ、おほせさふらいひしか。(p.88)

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