本の覚書

本と語学のはなし

新約聖書 訳と註1 マルコ福音書・マタイ福音書/田川建三訳著

新約聖書 訳と註 1 マルコ福音書/マタイ福音書

新約聖書 訳と註 1 マルコ福音書/マタイ福音書

 ようやくマルコ福音書が終わった。原典講読が思いの外はかどらない理由の一つは、田川の訳注を丁寧に読んでいるせいだけど(最近はそれにプラスして佐藤研編訳『福音書共観表』も見るようにしている)、これをやめるわけにはいかない。ギリシア語の語学的なことや異読まで目配りをした正文批判のことまで解説してくれる本など、他にはないのだから。
 ギリシア語が読めない人には、ちょっと辛いかもしれない。しかし、分からなくても読めるようにはなっているし、テクニカルに過ぎるところは飛ばしてもいい。そういうところを省いたとしても、他では得られないような知識が惜しげもなく披露されている。
 しかし、正統派の信仰に凝り固まっている人には、かなり辛い。田川はイエスもマルコも大好きだが、キリスト信仰のドグマには懐疑的で、マルコを資料としながら部分的に書き換えを行ったマタイやルカに対して、しばしば「改竄」と言う言葉まで吐いている。イエスの死後、エルサレムに留まり復活のキリストを宣べ伝え始めたペテロを筆頭とする弟子たちに対しては、もう何をかいわんやである。

ἀλλ΄ ὑπάγετε ἔιπατε τοῖς μαθηταῖς αὐτοῦ καὶ τῷ Πέτπῳ ὅτι προάγει ὑμᾶς εἰς τὴν Γαλιλαίαν· ἐκεῖ αὐτὸν ὄψεσθε, καθὼς εἶπεν ὑμῖν. (Mk16.7)

 これはマルコ福音書16章7節、最後から二番目の節である(その後に続いているのは後世の付加)。イエスの死後、その墓を見に行った女性たちに、白い衣を着た若者が現れて、イエスの復活を告げた後に言った言葉。
 これを新共同訳はこう訳している。

さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われていたとおり、そこでお目にかかれる』と。

 これが普通の訳である。
 ところが田川建三訳だとこうなる。

だが、行って、彼の弟子たちとペテロに言うがよい、彼は、以前あなた方に言っていたように、あなた方を先立ち導いてガリラヤへと行く。そこで彼に会えるだろう、と。

 問題は二つある。
 一つは「以前あなた方に言っていたように」がどこに掛るのか。文法的には、新共同訳のように「そこで彼に会えるだろう」に掛けることも可能だし、「あなた方を先立ち導いてガリラヤへと行く。そこで彼に会えるだろう」全体に掛けることもできる。しかし、田川の選択は、文法的にはやや強引な感はあるが、「あなた方を先立ち導いてガリラヤへと行く」だけに掛けるというもの。ここは14章28節のイエスの言葉を指しているのだから、この句のみに掛っているはずだという。ここにマルコのガリラヤ重視、そして弟子たちのガリラヤ軽視への批判が読み取れるというのである。
 一つは、復活したイエスは弟子たちより先にガリラヤに行くのか、弟子たちを導いてガリラヤに行くのか。proagoという動詞の語学的解説は14章28節のところにあって、時間的に先立つ意味の時は自動詞であり、他動詞で使うときは先頭に立って導くという意味であることが確認されている。したがって、マルコによる例外的な使い方を認めないとすれば、マルコにあっては先導の意味で使われていると考えるよりない。
 しかし、マタイはこれを時間的に先に行く意味と解した。そしてその理解に沿って、ガリラヤで復活のイエスと弟子が指定された山で再会する話を書いた。マタイがそう理解した以上、proagoにそういう用法があったではないかとも考えたくなる。そういうことなのだろうか。

 しかし、マルコが言っているのは果たしてそういうことだろうか? 復活のイエスの顕現のお話なんぞ、マルコ福音書が書かれた当時はまだ知られていなかった。確かに、おそらくキリスト教会の出発の最初の時点から、ペテロたちは、自分たちは復活したイエスに出会ったのだ、と宣伝していただろう(第一コリントス15.4-5参照)。そしてそのためには、その出会いのお話を何らかの形で語りはじめてもいただろう。語れば語るほど、自分の創作した話がいつの間にか自分でも事実のように思えてくる、といった具合に。けれども、そういった話は何一つ新約聖書の中では伝えられているない。記されているのはすべて、マルコ福音書が書かれた後、二~四十年後になって書かれた三つの福音書に出て来るものだけである。そしてそのいずれもマルコ以後の伝説的創作に過ぎない。そしてマルコ自身は、もちろん、そんなものを創作する気などまったくなかった。
 すると、この「彼に会えるだろう」は、「復活」したイエスの姿に、まさに幽霊にでも出くわすように、我々は会ったぞ、なんぞといったことではあるまい。マルコは、イエスはもはや死んでしまって、いない、ということをよく知っている。イエスは「復活」しました、などと信じてみたところで、本当のところはもはや直接イエスに会うのは不可能なのだ。だから、ガリラヤに行けばイエスに会えるだろうというのは、そこに行けば、かつてイエスが活動した思い出が、イエスの生きた姿の思い出が、イエスが語った言葉の数々が、まだ生き生きと残っている、その姿に会えるだろう、と言っているのである。そして、そのイエスの生きた姿があなた方を、このエルサレムにとどまるのではなく、そのガリラヤへと「先立ち導いて行ってくれる」のだよ、と。
 ところがペテロをはじめとするイエスの弟子を自称する人たちは、その思い出なんぞまったくそっちのけで(以下略)。(p.489)

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