本の覚書

本と語学のはなし

購入7-1 キリスト教回帰

 キリスト教回帰というのは、キリスト教徒への回帰ではない。購入する本に占めるキリスト教関連の比重を以前の水準まで引き戻すということであり、必然的にキリスト教について学ぶ時間が圧倒的に増えるということである。
 短歌の季節は過ぎ去ったが、小説はまだ完全に諦めたわけでない。どのような形で執筆していくのかしばらく試行錯誤が続くだろう。しかし、そのためにキリスト教の学習がなおざりになってはいけない。


七十人訳聖書入門

七十人訳聖書入門

キリスト教思想への招待

キリスト教思想への招待

 『七十人訳聖書入門』は日本語による初の入門書だそうである。七十人訳聖書というのは旧約聖書ギリシア語訳であるが、現在のヘブライ語聖書にはない外典を含み、カトリックではその一部が第二正典とされている。同一文書でも細かな異同がけっこうある。キリスト教徒が訳したわけではないが(イエス以前の訳である)、ほとんどキリスト教徒のための聖書になってしまったのだし、新約聖書内の旧約からの引用はけっこう七十人訳からだったりするのだから、キリスト教に関心があるなら七十人訳のことも知っておいた方がよい。
 田川建三はふだんはキリスト教の悪口を言い募ることが多いのだが、『キリスト教思想への招待』では、いやキリスト教にもいいところがあるのだよと思い直しているらしい。

以前『イエスという男』を書いた時には、あのたぐい稀なる人物のすごみを、キリスト教が「キリスト」信仰の中に消し去ってしまうことがいちいち目について、キリスト教に対してどちらかというと否定的な面ばかりを強調した。しかし、後のキリスト教がイエスとは違うにせよ、キリスト教キリスト教なりに、いろいろすぐれた遺産を残してくれているのも事実である。そのことは、十分にお伝えしなければならない。敢えて、「キリスト教思想への招待」を書こうと思った理由である。(p.iii)

 ちなみにイエスとキリストは別物であり、これをくっつけて考えるのは信仰である。


 エレミアスの二冊は、田川の『イエスという男』の後半でしばしば言及されるようだ。しかし、準備ばかりしていてはいつまで経っても田川にたどり着けない。エレミアスは田川の後で読む。