- 作者:犬養 孝
- 発売日: 1983/06/25
- メディア: 文庫
たぶん最初に読んだのは『万葉の人びと』である。当時私は古典文法なんて知らなかったけど、犬養のやさしい語り口調で大意はつかめるし、系図や地図が豊富で歌の背景も分かりやすく、夢中で読んだのだった。
次に読んだのが、この『万葉のいぶき』である。『万葉の人びと』に比べると今一つ面白くなかった。『人びと』が人物主体で歴史の記述も詳しかったのに対して、『いぶき』は恋、旅、四季をテーマとして誰だか分からないような人の歌も集められており、当時の私にはちょっと把握が難しかったのだろう。
新潮文庫からはさらにもう一冊、『万葉十二カ月』という本も出ているけど、これはたしか読まずじまいだった。『人びと』のような作者の歴史的背景が書かれたものでないと、やはり私には理解できそうになかったのだろう。
犬養孝というと、おそらく文献的な研究でも第一線の人なのだろうけど、なんといっても足で万葉を踏査した現場の人という感じがする。必ず詠まれた風土の中から歌の香りを立ち上らせるというのが、犬養最大の魅力だ。その集大成として『万葉の旅』全三冊(私が持っているのは平凡社ライブラリー版)がある。これは最後の最後にとっておく。
それと、独特の節回しで歌い上げる犬養節というのがある。今まで聞いたことはなかったが、今回ネット上で探してみた。もちろんこれについては嫌悪感を露わにする人もあって、私にはいいとも悪いともいえない。
ここで歌われているのは、次の歌。作者の分からない、農村の女性の歌。
さ檜隈 檜隈川の 瀬を早み 君が手取らば 言寄せむかも(巻7-1109)
『いぶき』の中での説明を引用してみる。
「川の水が早いから倒れそうになって、“あら、あぶないわ”といって、あなたのお手をとったら、村の人に噂されるかしら」
というもの。これはズバリいえば、この女性は、自分の愛する男性の手を握りたいのです。今だったら「私はあなたをとても愛してます。だから手を握りましょう」ということになるのだと思います。ちょうどそれと同じことなのです。ところが『万葉集』には四千五百余首のうち七割近くも恋の歌がおさめられていますが、「私はあなたが忘れられない、恋しくて恋しくてたまらない」などという歌は一つもありません。ではどういう歌かといいますと、ここであげた歌のように、愛はいつも具象的に、つまり形をもって表現しているのです。(p.61-62)
講演でも大体同じようなことを、同じような調子で話している。しかし、文字の上で体感できないのはあの節回しである。