本の覚書

本と語学のはなし

振り返る6月

【読書】
▼短歌のアンソロジーをぽつぽつと。万葉集犬養孝の入門書に寄り道。どうなるか分からないけど、漢詩を再開してみた。
▼和書はキリスト教中心に戻していく。
アラム語文法を復活させた。アウグスティヌスラテン語はやったりやめたりだが、復活させる方向。福音書の原典講読の際には、田川建三の訳注だけでなく、佐藤研の共観表も一緒に読むことにした。外国語に再び力を入れていかなくてはならない。


▼職場では、始業前のわずかな時間に和歌。『古今和歌集』を終え、今は『王朝秀歌選』。
▼仮眠の時間は、新共同訳聖書の通読を中断して、詩や小説。短歌誌の試し読みもしてみる。どれか定期購読するかもしれず、そうしたら作品を投稿してみるかもしれない。毎月雑誌にお金を払い続ける気になるか分からないけど。


【創作】
▼短編小説の集いには参加しなかった。
▼小説はどうしたもんか。しばらくお休みするかもしれない。


▼詩を書けないことは分かっているが、とりあえず読んでみる。



▼今月も短歌の目に参加。初回からずっとなので、50首詠んだことになる。右も左も分からなかった最初の頃に比べれば上達はしているはずだが、今もまだ短歌作りのいろはさえ知らないし、自分の短歌の方向性も見定めることができない。
▼今後の課題。短歌の歴史を学ぶこと。動植物のことなどもっと知ること。


▼日本古典文学、和歌、俳句、漢詩、現代詩に親しみ、外国語学習を通じてキリスト教と小説に親しむ。これを総合する文芸ジャンルとして短歌は確かに魅力的なのだけど、どうしてもアンビバレントな気持ちに始末をつられずにいる。
▼今書かれたばかりの短歌の多くはどうしようもなく古臭い。しかし、それを短歌の内部にとどまりながら克服しなくてはならない必然性が、私にあるのかよく分からない。
▼私自身の中にも、書いたそばから腐臭を漂わせるような時代遅れの短歌を作りたいという願望があるように思う。その一方で、日本的なものの伝統に参入することへの違和感も覚えてしまう。私が嫌うのは、古来の和歌の伝統というよりは特殊時代的なものであるかもしれないが、短歌がそういう器として機能しやすいものであることは確かなようだ。
▼それと、第二芸術論ということを短歌においてもまだよく考えてみる必要がありそうに思う。

6月に読んだ本