- 作者:加藤 治郎
- メディア: 単行本
伝統的なものでも現代短歌の中での使われ方は必ずしも伝統的ではない。例えば、枕詞。短歌の目では毎月お題に一つ出されるが、私はそれをまっとうな使い方でしか利用したことはなかった。
しかし、「ぬばたまのこころ」で黒い心を表現してしまうという言葉の経済化を図る例もあるし(これはこの本ではなくて、『50歳からはじめる俳句・川柳・短歌の教科書』で知った)、また洒落というか掛詞的に「久方のアメリカ人」という変化球を使う例もある。アメリカ人の方はなんと子規のものだ。
あをによしアラブの兵器見本市に宇宙人が紛れこんでいること
大田美和『水の乳房』
うん、こうなるともう「あをによし」がどう機能しているのか、誰にも分からない。
レトリックは勢い自己否定の極みにまで発展しかねない。短歌はそれを許容する懐の深さがあるようだが、それゆえ今後どのように崩壊していくのか分からないところもある。私は当事者でないから別に深刻に受け止めてもいないけど、後戻りはできないだろう。
後半は歌ことばにまつわるエッセーのようなもの。
今月お題に出た「紫陽花」の項があって、興味深く読んだ。
あぢさゐにさびしき紺をそそぎゐる直立の雨、そのかぐはしさ
大辻隆弘『水廊』
加藤は「紺をそそぎゐる」が凝った表現で難解であると書いているけど、たぶん時雨が(時に赤色の雨となって)木々の葉を色づかせるという伝統的な和歌のモチーフを紫陽花に応用したものだろう。
私も似たような発想で詠んでいたのだ。
なかぞらの虹の化石を溶かしきてさみだれはけふ紫陽花に染む
しかし、私が虹の化石などという大仰な仕掛けを必要としたのに対して、大辻は単にさびしい紺の雨が注ぐと言っているだけであり、私が「さみだれ」(陰暦五月の雨で、梅雨の雨と同義であるという)という言葉に託した雨の激しさを、大辻は「直立の」でくっきり際立たせている。
ああ、まるで紫陽花の鮮やかさが違う。私は三十一文字の短い文章を書くことはできるが、決して短歌を詠むことはできないのだ。
短歌疲れをしてしまったようだ。
短歌はしばらくアンソロジーをぽつぽつ読むだけにしておき、今度は軸足を詩に移してみる。詩が書けるかどうかは分からないが、それゆえ短歌のように一応それらしい形が簡単にできてしまうような危険はなさそうに思う。
あるいはまた小説を書いてみたいと思うかもしれない。私は断然散文の領域の人間であり、本来短歌や詩になど手を出すべきではないのだろうから。