本の覚書

本と語学のはなし

ヴェルレーヌ詩集/堀口大學訳

ヴェルレーヌ詩集 (新潮文庫)

ヴェルレーヌ詩集 (新潮文庫)

 いつも思うのだが、堀口大學の訳が好きでない。日本語として、文法的に、語法的に正しいのだろうかと不審のところもあるが、それよりも、なんか俗謡っぽくなるんだなあ。
 たぶんヴェルレーヌは至極やさしいフランス語で作詩している。だから却って、日本語へ移植するのは至難の業かもしれない。訳者の癖がもろに出てしまうようだ。


 岩波文庫の『フランス名詩選』で原文を確認できるものと堀口訳を二つだけ比較してみる。

 まず「秋の歌」の第一連。

 Les sanglots longs
 Des violons
  De l’automne
 Blessent mon cœur
 D’une langueur
  Monotone.

 『海潮音』に収められた上田敏の訳が有名だ。

 秋の日の
 ヴィオロン
 ためいきの
 ひたぶるに
 身にしみて
 うら悲し。 

 「ひたぶるに」はたぶん「モノトーン」を訳したものだろうが、語学の試験であれば落第である。「サングロ」も詩語としては「悲しみ」の代用として用いられはするけど、文字通りには「嗚咽」のことであり、「ためいき」のイメージではない。

 堀口大學訳。

 秋風の
 ヴィオロン
  節ながき啜り泣き
 もの憂き哀しみに
 わがこころ
  傷つくる。

 原文は単に「秋のヴィオロン」とあるばかりだが、ある日これは風の音のことだと気が付いて、「秋風のヴィオロン」に改訳したそうだ。しかし、そういう解釈は訳し込まないほうがいい。

 ちなみに、『フランス名詩選』の編者・渋沢孝輔の訳。

 秋の日の
 ヴァイオリンの
   ながいすすり泣きに
 こころ傷み
 単調な
   もの悲しさを誘われる。

 あまり色のない訳かもしれないけど、ヴェルレーヌはそれでいいのかもしれない。


 もう一つ。「〔たった一人の、たった一人の女のせいで〕」の冒頭二連。

 Ô triste, triste était mon âme
 A cause, à cause d’une femme.


 Je ne me suis pas consolé
 Bien que mon cœur s’en soit allé.

 堀口大學訳。

 たったひとりの女のために
 わたしの心は痛かった


 今ではどうにかあきらめたが
 そのくせわたしは泣いている

 一連目、「トリスト(悲しい)」、そして「ア・コーズ(~のせいで)」のリフレインが全く無視されている。実にあっさりしているが、そのくせ、二連目、単に「慰められない」となっているところを、「泣いている」としたのは少し筆を滑らせすぎている。

 『フランス名詩選』の渋沢孝輔訳。

 たった一人の、たった一人の女のせいで
 ぼくの魂はもう悲しくて、悲しくて。


 どうにも気持ちが慰まなかった
 とうに心は離れてしまっているというのに。


 外国の詩を翻訳で読むのはとてももどかしく、やはり原文で読まなくてはいけないと思うのだけど、それはそれで大変で、ため息しか出ない。


 その他のメモ。
 詩の奥義を語るその名も「詩法」という詩が興味深いのだけど、長くなるので引用はやめておく。興味のある人は新潮文庫の220ページを開いてみてください。
 ヴェルレーヌと妻とランボーとレチノアの関係をもっと知りたい。