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旧約聖書Ⅵ 列王記/旧約聖書翻訳委員会訳

旧約聖書〈6〉列王記

旧約聖書〈6〉列王記

 ダビデの晩年から、ソロモンの栄華と死後の王国分裂、ユダとイスラエルそれぞれの滅亡、捕囚までを描いた歴史書であるが、ヘブライ語聖書の中ではヨシュア記から列王記までが前の預言書として扱われいる。
 王と預言者との関わりもまた重要なテーマであるということであるけれど、列王記では特にヤハウェ信仰という観点から王たちを採点する姿勢が明確であり、及第点をもらっている王はほとんどいないし、ソロモンですらその点では貶されもする。宗教改革によって高評価を得ているヒゼキヤやヨシヤの息子たちが、ヤハウェ信仰にすさまじく悪辣に反旗を翻したという記述も興味深い。
 ほぼ同じ年代を扱う歴代誌(ヘブライ語聖書では諸書に含まれ、聖書全体の最後に置かれる)がユダの歴史を理想化しようとしているのとは、編集の方針が全く違うのである。


 ただし、編集者たちがみな一枚岩であったというわけではないようだ。微妙な意見の違いが書き込まれていることもある。「実際、旧約聖書の一番の魅力とその変わらぬ活力の秘訣は、聴き手(読者)を受け身にさせないで語り手(著者)たちの議論に積極的に参加させようとするところにある(この議論の伝統が後にミシュナやタルムードといった大きな作品を生むのである)」(解説 p.308-309)。


 列王記はバビロン捕囚に終わる。神は沈黙する。だが、それでヤハウェ信仰は終焉を迎えはしなかった。ヤコブが腿のつがいが外れるまで神と格闘したように、そしてそれによってイスラエルの名を得たように(創世記31章23-33)、ユダの民は神への問いを諦めずに問うていくことになる。その結晶がヨブでありコヘレトである。「神への問いかけを止めないし、決して諦めない――これこそ旧約聖書の人々が後世に何よりも伝えたかったことであると言っても過言ではない。旧約聖書は、この書物にそのような名前を付けた後代の人々の意図とは逆に、『旧く』なろうにもなれないのである」(解説 p.311)。


 最後にこの翻訳の特徴をひとつ。人物の表記をあえて統一せず、原典にあるままを再現している。例えば預言者のエリヤは、ふつうどの翻訳を見ても、どこでもエリヤと表記されているはずであるが、実際にエリヤと原文に現れるのは4回くらいで、あとは断然エリヤフと書かれているそうだ。だからこの翻訳では、ほとんどの箇所でエリヤフと書かれており、うっかりするとあの有名なエリヤのことと気づかずに読んでしまうかもしれない。
 こんな表記の揺れは旧約だけのことだと思うかもしれないが、実はルカ福音書ではイエスの母はマリヤムと書かれていて、もちろんルカは意図的にそうしているのだろうけど、我々はそんなことをまるで知らされないから、あの受胎告知の美しい場面を見ても、これが天使ガブリエルと聖母マリヤムのことだなどとはつゆ思わず、聖母は当然マリヤもしくはマリアだとしか想念しないのである。

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