本の覚書

本と語学のはなし

詩のレッスン/入沢康夫・三木卓・井坂洋子・平出隆編

 なんだかもうね、詩が詩の長さに達する以前に集中力が切れて、関係のない妄想が始まって、詩に目を戻してもどこまで読んだか分からなくて適当なところから再開して道に迷ってしまうお年頃のおっさんなのだよ。
 かといって、俳句ほど切りつめられるともう、何を言ってんだかわけわかめとか呟きたくなって、目が点になって視野狭窄症に罹患する時代屋のおっさんなのだよ。
 短歌くらいがジャストサイズとか思ってたら、女性御用達とか青春のはけ口とか、必須科目は恋ですとかきっぱり断言されて、クリィミーマミのDVDでも買わなきゃいけないのかしらんとすっからかんの財布に振り子時計の振り子の涙を流す貧乏書生のおっさんなのだよ。
 いえいえ、これは詩ではありません。こんな詩は書きたくない。私は散文が書きたいのです。


 ところで、詩人は職業・詩人として生きていくのは難しいようで、仕事をしながら詩作する人が多くて、それもけっこう皆さん知的な仕事をしているようで、学者も多くて(もちろん歌人にも学者はいて、国文学者が一番多いだろうけど、永田和宏の師の高安国世はリルケの翻訳者でもあった)、多田智満子の名前を見たときには、ああこのベルばら的な字面になにやら古い情事の記憶があると思ったら、そうそう、ユルスナールの翻訳者だったっけ。
 どうせ私に詩は分からないし(理解するものではないと解説されているが、いずれにしろ私のどのチャンネルにも詩はヒットしない)、適当で申し訳ないけど、多田智満子(念を押しておくが、ベルばら的ではあるがベルばらの人ではない)の硬質な散文詩をひとつ引用しておく。妄想畑の雑草に足を絡めとられて捻挫をしていただきたい。

あやとり


 両端をつなぎあわせて輪にしたひもが両手の指から指へはりめぐらされ、ひとりの指の間で鼓であったものが、相手の手にうつると畑になり、もとの手にもどると小川に変っている。
 変相は数種にかぎられており、あやつる指の動きに従って一定の結果が生じる。偶然の介入する余地はない。
 うつむいて、四本の平行線から成る川に倦怠を映していると、川幅が少しずつひろがり、一刻が無限に近い幼年期の午下り、眠たくなった子供は、自分の手のうちの川に、まっさかさまに墜ちこんでいく。