本の覚書

本と語学のはなし

短歌という爆弾/穂村弘

 短歌を作る営為を爆弾作りにたとえて、導火線、製造法、設置法、構造図が語られる。
 構造図はかなり難しい。文庫版の解説に枡野浩一が書いている通り、とてもじゃないが初心者向きではない。一つの要因は、文庫版スペシャル・インタビュー「爆弾のゆくえ」の中で穂村弘が自ら言っていることと関連するのだろうけど、「歴史性の中で読まない」「実存的な読みに徹する」という姿勢にあるのではないか。

井辻朱美、紀野恵、水原紫苑などをはじめとして、私自身の裡にもあるこの〈わがまま〉の感覚は、同世代の歌人にある程度共通するもので、相互影響というよりも同時発生的なものに思われる。彼らの表現は、従来の短歌が根ざしていた共同体的な感性よりも、圧倒的に個人の体感や世界観に直結したものとなっている。彼ら自身の中にある、自分よりも大きな何かに対する憧れや敬虔さや愛の感覚は、従来の歌人に比べてもむしろ強いものだが、それはあくまでひとりの信仰なのである。〈わがまま〉とは、この信仰心の強さにほかならない。その結果、ひとりひとりの表現の方向性は、ほとんど同一のジャンルとは思えないほどに多様化して、しかし同時に語彙の偏りや文体の過剰さに関しての印象にはどこか共通性が感じられる。彼らの〈わがまま〉が、手つかずの世界を自在に組み替えて表現を極端な場所へと向かわせたのである。(p.275-276)


 非共同体的で歴史から断絶した個々の〈わがまま〉な信仰心の強さ、すなわち実存の強度にこそ賭けなくてはならない。そしてそこからのみ短歌は評価される。そんなふうに考えている節がある。
 インタビューによれば、後に『短歌の友人』を書くときには歴史を導入するようになったというし、価値観は大いに揺らいで、「塚本的断言」(塚本邦雄タイプ)から「岡井的混乱」(岡井隆タイプ)へとシフトしつつあるようだ。
 見たこともない未知なものが面白いと言う。未知の発見を担保するものはきっと実存の強度に違いないだろうけど、実存の強度を担保するものはある種の流動性であり、その流動性が歴史性と関連付けられているということなのだろうか。

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