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イスラーム国の衝撃/池内恵

イスラーム国の衝撃 (文春新書)

イスラーム国の衝撃 (文春新書)

▼中東情勢は錯綜しすぎてよく分からない。とくに近年、分散化した非集権的な形態が主流となると、もう何が何だか。


▼過激派の論理は本当にイスラーム教の教義と相容れないものなのか、という私にとっての一番の関心について簡単にメモしておく。
▼ジハード自体はイスラーム法の中で明確に認められている。しかし、近代においては国家がそれを統制し、勝手なジハードは許さないものと理解されている。

しかし、イスラーム世界が植民地主義の支配下に置かれたり、国家が独立していても超大国の覇権構造に組み込まれ、従属的立場に立たされりする状況を前にして、「自分の国はすでに異教徒に支配されている」、または「イスラーム教そのものが危機に瀕している」といった現状認識を抱き、それを理由にジハードの義務が自らにも課せられていると意識する者たちが繰り返し現われてきた。そういった人たちがジハード主義者と呼ばれる。ジハード主義者は、イスラーム教徒が支配権を失った、イスラーム法的にはあってはならない状況下でもなお国家がジハードを行わず、それどころか国民にジハードの実践を禁止したり妨げたりしていることは違法行為である、と考える。そこから、国家による制約を無視してジハードに出征することは宗教的に正当であり、それを阻害する国そのものをジハードの対象にすることも正当である、という思想も出てくる。(p.144-145)

過激思想に強く賛同しない市民は多くいる。人数から言えば、そちらが多数派だろう。しかし過激思想を適切に論駁する論法も尽きている。イスラーム教を共通の典拠とする以上は、穏健な解釈と過激な解釈は、どこまでいっても「見解の相違」として平行線を辿る。スンナ派では、特定の解釈を上位の優越するものと認定して強制的に施行しうる主体がいないため、過激派が勝手に行動することを止められない。過激派の行動を実力で阻止してきたのは、各国の独裁政権であり、その統治の不正や暴虐こそが、過激派を生み出す根本原因ともなっている。独裁政権の暴力に頼っている限りは、過激派の発生は止まず、かといって過激派の抑制には、独裁政権を必要とする。このジレンマにアラブ世界は、疲れ切っている。さらに、「アラブの春」によって、そのような独裁政権は意外な脆さを露呈し、暴力による抑制すら不可能になっている。(p.171)


▼国家の統制を離れたジハードも、それにともなう過激主義も、イスラーム教の内部から決定的に論駁できるようなものではないらしい。「これはイスラーム教ではない」と言われるのをよく耳にするが、それはそういう見解を持つ人が多数派であるという意味に過ぎないようだ。
イスラーム国は奴隷制もイスラーム教の教えであるとして、その復活を宣言している。池内恵は内部からの改革が必要であると訴える。

このような現代の国際社会の規範を逸脱する結論を、イスラーム教の神聖な啓典やそれに準ずる教典から導き出すことについて、世界のイスラーム法学者は、どのように反応しているのだろうか。このような法学解釈の根拠や論理展開に正面から反論する学者が出てこなければ、過激思想を正当なものとみなす次世代が育ちかねない。イスラーム世界にも、宗教テキストの人間主義的な立場からの批判的検討を許し、諸宗教間の平等や、宗教規範の相対化といった観念を採り入れた、宗教改革が求められる時期なのではないだろうか。(p.203)


▼最後に、3つの一神教を比較した面白い言葉を紹介しておく。

キリスト教では、「神のものは神へ、カエサルのものはカエサルへ」と政治と宗教の分離が定められ、ユダヤ教では、異教徒に支配されている状態を正常ととらえ、終末の日に正義がなされることが待望される。それに対して、イスラーム教は、ムハンマドが、メッカを逃れ、メディナで共同体の政治指導者として迎え入れられ、統治や軍事を司って、神の法を施行する側に立って発展していった。(p.149)

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